第5回あおこめ版東方SSこんぺ(あおこんぺ5)

ミステリー作家Qの事件簿

2017/10/01 20:29:39
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 梅雨が明けた静かな夜だった。昨日までの湿気が嘘のように涼しい夜風。明日からは例年通りの蒸し暑い日々が続くのだろう。満月が煌々と照る下、月明かりのみに照らされた薄暗い部屋の中で、少女は一人、本のページを捲った。
 もう丑三つ時に入ろうとしているのに、少女、稗田阿求は床に就くどころか、その目は普段より深く文字の中に入っていく。生涯の業である幻想郷縁起の編集ももう大詰めを迎え、阿求自身の時間が増え始めたこともあってか、部屋の中に高く積み上げられた本を次々と読み進めている。

「ふぅ……」

 阿求は最後のページを捲り終えた。また一つ本を読み終えた達成感と、物語の余韻に浸りながら、満足げな溜息を漏らす。御阿礼の子ということもあってか、幼い頃から本とよく触れあって育った。阿求も幻想郷縁起の編集の合間を見つけては、進んで本を読むようになった。稗田家の当主という立場もあり、頻繁に敷地から出られない。そんな阿求にとって、本は自分の知ら無い世界を見せてくれる魅力的なものに違いなかった。
 読み終わった本を机の脇に積み上げている読み終えた本の上に重ね、ゆっくり立ち上がる。阿求はそのまま襖を引き自室を出でて、縁側に腰を降ろした。人も妖怪も寝静まった幻想郷の夜空に、阿求の鼻歌が広がる。それを聞いていたのは月と、風と、微かに揺れて鳴く草木たちだけ。
 月を眺めながら阿求は物思いに沈む。幻想郷縁起の編集を大方終えた今、自分がすべきことは何だろう。これまでは幻想郷縁起の編集を最優先に、それこそ生きがいにしてきた。だが最近は幻想郷に大きな異変はなく、縁起を編集することはあまりない。急に時間ができてしまうと困惑する、というわけではなかったが、物悲しさは確かに胸にとどまり続けていた。

「……悩んでも仕方ないかも」

 一つ大きく伸びをして、阿求は立ち上がった。どうせ自分がこの世に居られるのはせいぜい十数年。百年後にはまた忙しくなることに違いない。自分が自由にしていい時間が増えたのならむしろ歓迎じゃないか。
 自室に戻り、寝る前の習慣として、机の横に積み上がっている本を本棚に収め始める。今日もたくさんの本を読んだ。一冊収めては「この本は外の世界の推理小説だった」などその本の内容を思い出して、阿求は小さく笑う。どうして文字の羅列がこれほどまでに誰かを感動させられるのか、不思議でならない。文字の一つ一つがつながり、誰かの人生を描く。一冊が内包する世界はあまりにも広く深く、常に読み手を楽しませる。時に泣き、時に笑う。誰かの心を動かせる物を作れる者を、阿求は心から尊敬している。
 そして、自分もそうありたいと願った。その思いが具現化した姿が、小説家「アガサクリスQ」としての阿求。初めは他の目的もあったのだが、自分で物語を書いているときは、阿求自身、自分が何者であるかを忘れ、夢中で筆を進めていられた。一冊の本が仕上がった時は「読んでもらえるだろうか」と不安に駆られたこともあったが、思いの外大勢の人に読んでもらえた。家柄のこともあり、正体は今もなお隠したままだが、自分が書いた本を誰かが読んでいるのを見かけると、その度胸が高鳴る。
 本棚の隅に収められている自分の本。阿求がこの世界に居られる時間は少ない。だが書いた本は、自分が居なくなっても世界に残り続ける。稗田阿求が生きた証として。残った時間をそれに費やすのも悪くない。
 全ての本を本棚に収め終わると、阿求は机の前に座りペンを執った。少しでも時間が惜しい。いらない紙にアイデアや構想を書きなぐる。さて、今回はどんなものを書こうか、考えるだけで気持ちが高揚するのが手に取るようにわかった。

「そうね、題材は……」

 物語の基準を探して走る阿求の目。そしてその目は一冊の本を捉えた。それは本棚に収まっていた阿求が幼き日に読んだ短編小説。数年ぶりに手に取ってみると、懐かしさが一斉に本を持つ手から伝わって来た。阿求は一度見た物事は決して忘れることがないので内容は覚えているが、それでもページを捲らずにはいられなかった。物語を読むと同時に、あの頃の自分を思い出す。「ここの謎が解けなかった」とか「この表現に感動したな」とか些細なことばかりだったが、阿求にはそれがなんだか新鮮だった。自分の過去など振り返ったことはなかったから。
 勢いのままに一冊を読み終え、阿求は笑った。手に持つ小説をペンに持ち替え、再び筆を走らせる。その顔は満足そうな笑みを浮かべ、手を忙しなく動かす。

「素敵な作品になる。きっと楽しいことが起こりそう」
 
 幻想郷の夜は更けていく。朝はそう遠くない。それでも阿求は夢中で文字を紡ぐ。それが彼女にとって、今一番やりたいことだから。



                   第1話「始まりのQ/百年と少し先の君に」

      2


 季節はいやになるほど夏だった。
 屋外でも屋内でも、皆一様に厳しい暑さに手を仰ぐ。それは妖怪の山の内部にある新聞管理局も同じだ。山の内部はセミの鳴き声がうるさいくらいに聞こえ、ますます暑く感じる。白狼天狗は周囲の見張りに出回っているため人気は少ないが、むしろこれなら屋外にいた方が風を感じられて気持ちいいかもしれない。

「あつい……」

 小さな愚痴とともに頬を伝う汗を拭う。
 白い半袖のシャツには汗が染みこみ、ミニスカートだというのに涼しさを感じない。
 烏天狗の射命丸文は、一人長い廊下に濃い影を落としていた。足取りは重く、心の中ではいつでも引き返す準備をしていた。できれば帰りたい。だが帰ってしまった時の方が自分にとって嫌な状況を作ってしまうことを射命丸は知っている。今ほど天狗の縦社会を恨んだことはないかもしれない。上司の呼び出しからは決して逆らえない。
 そして寄りにもよって新聞管理局に呼び出されていることが一番不安を掻きたてた。新聞管理局は名前通り天狗が発行している新聞を管理している所である。天狗はまずそこで手続しなければ新聞を発行することはでない。そして発行し始めてからも、出すときは毎回目を通される。そんな場所に呼び出されたのだから、射命丸が発行している『文々。新聞』のことに関していることは誰にでもわかる。そして射命丸にも呼び出される心当たりがあった。
 長い廊下の果てに、射命丸は第七支部の扉の前で足を止める。数回ノックすると、中から「どうぞ」と低い声が返ってきた。一度大きく息を吐き出し、ゆっくり吸う。緊張していないと言ったら嘘になる。何を言われるかは大体の予想ができるが、その先は全く予想できない。

「失礼します」

 どうせなるようにしかならない。諦めと覚悟との曖昧なところに押し込んで、射命丸は扉を開いた。部屋の中は、廊下ほど暑くない。しかし上司の後ろの窓から射す厳しい日差しが目に痛い。しかも逆光のせいか、口の前で手を組んで座っている上司の顔がいつもより余計に厳つく見える。
 静寂が辺りを包む。本当は数秒のはずなのだが、射命丸には十数秒にも感じられた。緊張が部屋に張り詰め、いつも以上に息苦しい。そんな中、上司が口を開く。

「よく来たな射命丸」
「……呼ばれましたので」
「なぜ呼び出されたかわかるか?」

 射命丸は黙った。理由は自分がよく知っている。だが、それを自分で口にすることは余りしたくなかった。それを察したのか、上司は一つ溜息をついて話を続ける。

「『文々。新聞』の先月の発行数0……確かに最近の幻想郷は平和そのものだ。ネタに苦しむ気持ちもわかる。だがそんな時こそネタを集めてくるのが新聞記者だろ」

 正論過ぎて言い返せない。この上司は報道、新聞に対して並々ならぬ情熱を持っていることは天狗たちの間では有名だ。ジャーナリズムを語らせたら右に出るものはいない。それゆえ射命丸が新聞を発行できなったなったことに憂いて呼び出したことは想像がついた。

「それはそうなのですが……」

 好きで新聞を発行していないわけではない。むしろこの事態を何とかしようと動いてはいた。しかし、ここ数ヶ月なんの異変も起こらず、人間の里で妖怪がらみの事件も起こらない。昨日と同じ幻想郷では、新聞が書けたとしても長くは続かない。そんな状態が続き、先月射命丸は新聞を発行できなかった。こんなことは射命丸が新聞を書き始めてから初めてのことで、射命丸自身ショックは大きかった。射命丸の沈黙の後、思い出したように上司は言う。

「射命丸、お前は確か人間の里に配る用の新聞を発行していたな?」
「はい、していました」

 射命丸はいつも作る『文々。新聞』のほかに、もう一つ『人間の里版 文々。新聞』も発行していた。人間の里にある貸本屋『鈴奈庵』で、人間用の新聞を販売していたのだが、さすがに普通の新聞も出版できない今、人間の里用の新聞を書いている余裕はないため、あちらの発行も止まっていた。だが、それを聞いた上司の目が光った。

「それだ」

 射命丸は上司の発言の意図が掴めず首を傾げる。上司は椅子から立ち上がると、その声を大きくする。

「いつもの新聞は休刊で構わない。今はそっちの方を最優先で仕上げろ。妖怪より人間の方が比較的に情報を、真実を求めている」

 少し納得がいった。確かに天狗や河童以外の妖怪は余り新聞を読まない。それに比べて人間は、率先して情報を得ようとする者が少なくない。鈴奈庵という販売できる場所も確保しているため売りやすさもそちらの方がいい。光る上司の目に、さらに熱がこもる。

「写真の構図と真実のみを伝えようとする姿勢がお前の新聞の取り柄だ。それはむしろ人間の里の方が活かせる。上には俺が言っておく。今からでも人里で取材してこい。いいか? どんな時でも読む者が知りたがるような、誰も知らない一つの真実を掴め! そしてそれを伝えるのが新聞の、ジャーナリズムの真髄だ!」
「誰も知らない真実なんて……あるんでしょうか?」
「それを見つけてくるのがお前の仕事だろうが!」

 上司の怒鳴り声に、射命丸は肩を竦める。さらに上司はまくしたてるようにして言った。

「もしも今月も新聞を落とすようなことがあってみろ、来月から新人の添削部門に飛ばすぞ。新聞記者としての肩書を失いたくなかったら、死ぬ気でネタを探してこい!」

 首根っこを掴まれると、そのまま部屋から投げ出されてしまった。
 自分も女なのだから丁寧とまではいかないが、もう少し扱いを考えてほしい。
 それを招いたのが自分の軽口だということは射命丸も重々承知しているが、ああ言わずにいられなかったのだ。今の幻想郷に誰も知らない真実など本当にあるのか。しかも人間が知りたがるような、そんな都合のいい謎が落ちているなら射命丸が既に拾っているだろう。なんの変哲もない日常からネタを拾い上げるのは困難を極める。
 だがそれができなければ新聞記者は務まらない。新聞を書いていれば、いつかこういう局面に差し掛かることもあるだろうと覚悟はしていた。平和になって暇を持て余していいのは警備担当の白狼天狗だけだ。新聞記者はその平穏に埋もれているネタを探し出さなければ生きていけない。
 射命丸が一人考え込むなか、長い廊下に足音が増える。それは射命丸のいる方へ向かって歩みを進め、射命丸が立ち尽くす第七支部の扉の前で足を止めた。

「文?」

 その声に釣られる形で射命丸は声がする方へ視線を運ぶ。明るい紫色の天狗帽子を被り、長い髪を紫のリボンで高い位置でまとめツインテールに。白いワイシャツに黒いネクタイ、黒と紫の市松模様があしらわれたミニスカートを穿いている。射命丸もよく知る姫海棠はたての姿がそこにあった。立ち尽くす射命丸の姿に姫海棠は首を傾げたが、すぐに納得したような顔をして言った。

「ああ、呼び出されたのか」

 しかし思うところあって、射命丸も首を傾げる。
 姫海棠と射命丸は同期ということもあり、同じ新聞記者でありながらそれなりに親しい。だから射命丸は姫海棠があまり出歩かないことを知っている。こんな炎天下に、それも新聞管理局に足を運ぶことなどないと思っていた。
 だが射命丸はすぐに気付く。

「はたても呼び出されたのね」
「そうなのよー。なんか"事実と違う"って苦情がはいったらしくてさー、困っちゃうわ。今回も当たってると思ったんだけどね」
「いい加減やめたら? 妄想新聞」

 姫海棠が発行している『花菓子念報』は、姫海棠の能力である【念写をする程度の能力】によって撮られた写真を使用し、それを元に作成している。だが新聞にする際、写真を元に彼女自身が想像とひらめきで記事を書いてしまうため、天狗の中では“妄想新聞”と言われることがほとんどであった。
 それだけなら上層部が『花菓子念報』の発行を止めればいいだけなのだが、驚くべきことにこれがよく当たる。写真から得られる情報だけで、直感的に真実を突き止めることに姫海棠は長けていた。しかし言わずもがな必ずしも当たるわけではない。直感はその域を出ることはなく、外してしまうこともある。さらに付け加えれば直感で書く姫海棠の記事は、真実にたどり着くことはあってもそこに行き着くまでの過程を理論的に記すことができない。よって読者の理解も得られるはずもなく、売れ行きはあまりよろしくない。推理好きな一部の層には人気らしいが。

「新聞記者やめて安楽椅子探偵か小説家にでも転職したらいいのに」
「あー無理。探偵は面白そうだけど誰かのためにやるにはちょっと重すぎるし、小説かける文才なんて、私にはないからね」

 一つ大きく伸びをすると、吐く息に混じって言葉をこぼす。

「私がアガサクリスQだったらいいのになー」
「アガサクリスQ? 誰それ?」

 聞き慣れない名前に射命丸が聞き返すと、姫海棠は目を白黒させて射命丸に顔を寄せて言い寄った。

「えっ、知らない?」
「初めて聞いたけど……そんなに有名な人?」
「有名も何も"正体不明のミステリー作家"じゃない! 今人間の里ですっごく人気なんだから!」

 いつもの気怠さを吹き飛ばすように、やや興奮気味に語り始めた。こうなったら止めるのはまず無理だと知ってか、射命丸もその話に付き合う。
 姫海棠の話によれば、そのアガサクリスQというのは人里に住む人間であるということはわかっているものの、それ以外は何一つ知られていない。小説のジャンルはミステリーが大半。一作目の『全て妖怪の仕業なのか』を皮切りに、二作目、三作目とうなぎ登りに人気は上がっていき今や人間の里で知らない人はいないほどの作家のようだ。ヒットの理由はその作風らしく、幻想郷の世界観で書かれた推理劇は、従来のミステリー小説より幻想郷に住む人間にうけたのだろう。

「私は小説とか読まないから知らなかったけど……あんまり家から出てこないのによく知ってるわね」
「常にアンテナだけは建ててるから。最近退屈だから本でも買おうと思って鈴奈庵に行ってみたらアガサクリスQの小説が置いてあって……試しに読んでみたらそれが面白くて」
「それで好きになっちゃったわけね」
「そんなとこ。誰なのかなー、アガサクリスQ」

 そういうと姫海棠はほんの少し間を置いて、スカートのポケットから取り出したメモを射命丸に差し出した。

「はい、これ」
「えっ……なに?」

 突然のことに戸惑う射命丸だったが、「早く」と催促してくる姫海棠の視線に耐えられずメモを受け取る。メモに視線を落としてみれば、姫海棠が書いたと思われる文字が所狭しと書かれていた。内容は姫海棠のアガサクリスQについての考察。その人物像に迫るものだった。そして最後の行には一際大きく『とりあえず小説全部読んでみろ』と書かれている。
 視線を姫海棠に戻して射命丸は言う。

「どうしてこんなものを?」

 正体不明の大人気作家アガサクリスQの正体。誰もが知りたい真実。同じ新聞記者として手放すには惜しいネタのはずだ。
 だが姫海棠は少し口角を上げると、ポケットから携帯型のカメラを取り出し、親指で操作しながら言う。

「んー、なんでだろう」
「何よそれ」
「ほら、私ってそんなに真面目に新聞作りに取り組んでる訳でも、何か信念があるわけでもない。でも文はさ、真実だけを伝えようって努力してるじゃん」

 動かしていた指を止め、姫海棠はカメラの画面を射命丸に見せるように持ち替えた。光る画面の中には、姫海棠が念写したと思われる写真が表示されている。それを見た射命丸は目を瞠った。暗い部屋で、机に置いたスタンドの光に照らされた白紙の原稿。それと難しい顔で見つめ合っている自分の顔。
 携帯をポケットにしまいながら姫海棠は笑う。

「だからさ、ちょっとくらい良いことあってもいいんじゃないかなーって」
「はたて……ありがと」
「正体が分かったらサイン、貰っといてよね」

 姫海棠はそれを告げると、最後に笑いながら手を振って第七支部の扉の向こうへ消えて行った。もしかしたら最後の言葉が動機なのかもしれないが、もしかしたら自分の身を案じてくれたのではないかと、射命丸は思った。
 扉の向こうからは「ノックもしないで入ってくるとは何事だ!」と上司の怒鳴り声が聞こえてくる。姫海棠が部屋から出てくることは当分ないだろう。
 物憂げだった射命丸の顔は、本来の記者としての顔つきに変わり始めている。偶然もたらされたこのチャンスを無駄にはできない。これが現状を打破するための新しい風穴となって、そこから飛び立てるかどうかは射命丸自身の手にかかっている。
 窓から指す太陽の光は、管理局にやってきたときよりも角度を上げ、暑さはさらに増していた。窓枠に区切られた空の青は、まるでカメラのフレームをのぞき込んでいるように思える。窓の鍵に触れれば指先から夏の暑さを感じた。窓を開ければ、夏の暑さのこもった風が一気に廊下に吹き込んでくる。そこから身を乗り出せば幻想郷が見渡せた。夏の暑さに少し景色が歪んで見えるが、それはそれで夏らしい。
 射命丸は肩から提げている愛用の二眼レフを手に取り、構えた。ファインダーを開けてのぞき込めば、先ほどまで射命丸の瞳に映っていたのと同じ景色が見える。レンズを絞ってフォーカスを調整し、射命丸はシャッターを切った。
 こんな風に自分がいいなと思える景色を写真に収めることが、射命丸は好きだ。
 最後にフィルムを巻いて、射命丸は窓から飛び立つ。こんなにも暑いのだ。窓を開けていっても怒られはしないだろう。黒い翼を羽ばたかせて、射命丸は青く澄み切った空の下を悠々と飛んでいく。
 今月は残り二週間。新聞記者のプライドに賭けてネタを掴んでみせる。その決意と共に、射命丸は一層強く翼を羽ばたかせた。胸の鼓動が高鳴っていくのを感じる。懐かしい感覚だ。いったい何時ぶりだろう。射命丸はその表情を少し綻ばせると、小さく呟いた。
 面白いことが起こりそう――記者の勘というやつだろうか。


     3


 人間の里は妖怪の山からかなり遠い位置にあるのだが、射命丸にとってはたいした距離ではない。飛んでいけば二、三分で着いてしまう。
 だが今回は一度家に帰って変装用の服を取りに戻ったため、管理局を出てから十分くらい経っていた。人間の里では妖怪は通常出歩けない。人間の里に出入りしている妖怪は、人型をしているものに限られる。人型をしている妖怪の中にも、さらに変装するもの、気づかれないように平然を装うものが居るが、射命丸はその前者だ。取材対象に警戒心や恐怖心を与えたら、情報は聞き出せない。幸い射命丸の姿はそっくりなため、今被っているようなベージュのキャスケット帽を被ってしまえば、まず気づかれないだろう。いつもならこれに同じ色のジャケットを羽織っているのだが、暑さに合わせて白いワイシャツにベージュのベストを着ている。
 やって来た人間の里はお昼時を迎え、かなり賑わっているように感じる。皆、暑さに顔を歪めるものの、暑さから逃れようと甘味所で冷たく甘い菓子を食べたり、そば屋では冷えた素麺を啜る客で大いに繁盛していたり、お茶屋の暖簾を潜る人が後を耐えない。射命丸自身も何か冷たいものでも食べたい気分ではあったが、先に用事を済ませてしまおうと欲望を振り切った。
 お茶屋の前を通り過ぎ、商店街を進んで行くと、食事所から徐々に雑貨や生活用品などが売られているエリアに入っていく。そこからさらに奥へと進むと、居住エリアとの境である十字路が見えてくる。射命丸はその十字路を右へ曲がり、一件の店の前で足を止めた。『鈴奈庵』と書かれた看板を見て小さく言葉をこぼす。

「ここに来るのもなんだか久しぶりな気がする」

 入り口の暖簾を潜って中に入ると、射命丸が記憶していた通りの構図だった。入り口から見て右手に並ぶ本棚。目の前には店主が居るであろうカウンターがあり、その上には天狗の書が額に飾ってあった。店内はかなり広いはずなのだが、本棚が大部分を占めているため、感覚的には少し狭く感じる。入り口すぐ側には本来『文々。新聞』を置くスペースがあるのだが、そこに新聞は積まれていない。お昼時と重なったためか、射命丸以外の客の姿はない。
 カウンターの奥から声が聞こえる。

「それではお願いします」
「はい、分かりました。十日間ですね」

 一つは声からして中年の男性のもの。そしてもう一つの声は聞き覚えのある少女の声。
 射命丸はその少女が出てくるのを待っていると、話し合いが終わったのか声の主である二人がカウンターの奥から出てきた。先に出てきた男性は、まだ奥の暖簾で顔が隠れている人物に頭を下げ、射命丸が立っている出入り口の方へ向かってくる。
 邪魔になると思い射命丸が端に身を引くと、男性は「どうも」と小さく頭を下げた。礼儀正しい人、射命丸は男性の背中を見送った。

「あっ」

 少女が暖簾から顔を出す。

「文さんじゃないですか」

 飴色の髪を鈴がついた髪留めでツインテールにまとめ、紅色と薄紅色の市松模様の着物の上からクリーム色のエプロンを身につけている姿が印象的な、ここ鈴奈庵の看板娘、本居小鈴はブーツの靴底を響かせながら射命丸に歩み寄る。静かな店内に鈴の音が広がった。
 射命丸は笑って手を振ると、小鈴は少し戸惑ったような顔で言葉を返す。

「最近新聞、持ってきませんけど……今日はどうしました?」
「新聞はそのうち持ってきますよ、今日は本を探しに来たんです」
「本をお探しですか?」

 小鈴は心底驚いたような顔をする。

「天狗も本、読むんですね」
「これも取材です。なんだっけ……そう、アガサクリスQの小説が読みたいんですけど、置いていますか?」
「はい! 全巻揃っていますよ!」

 小鈴は先ほどの雰囲気とは打って変わってご機嫌になり、快くアガサクリスQの小説が置いてある本棚へ案内を始める。その変貌ぶりに、まるで水を得た魚のようだ、と射命丸は小鈴のあとを追いながらそんなことを考えていた。
 小鈴の歩みがある本棚の前で止まる。連れてこられた本棚には、おそらく小説と思われる本が数多く納められていた。その中のちょうど射命丸の目の高さ、一番人目が向く位置に"アガサクリスQ シリーズ"と書いてあるコーナーが設置されている。小鈴の言うとおり全巻揃っているらしく、コーナーには空きはない。
 ふと小鈴は尋ねた。

「それにしても、どうして急に小説なんて」
「今、この人間の里で正体不明の小説家アガサクリスQの作品が流行っている。だからちょっと正体を調べて新聞にしようと思いまして」

 射命丸がそう口にした途端、小鈴の顔が明らかに変わった。視線は決して射命丸とは合わせようとせず、頻りに自身の手を握っている。その様子を見て、射命丸はあることを思い出し、ポケットに入っている姫海棠のメモを取り出す。

「アガサクリスQの作品を置いているのは鈴奈庵だけなんですね」
「えっ! ああ……はい。うちでは製本もやっているので。うちで作って、そのまま店頭に出していますけど」
「ふうん。でもどうしてアガサクリスQは他の場所では売らないのでしょうか? 人間の里で本を売れる場所はここだけじゃない。だったら他のところにも置いた方がたくさんの人の目に触れて、読んで貰えるはずです」
「そ、それは私にも分かりませんね……たんに正体を隠したいんじゃないですか」
「ならどうして鈴奈庵を選んだのか。製本する原稿を持ってこの店に来ているんだから、貴女は正体を知っていますよね。貴女になら正体を知られてもいい……そうともとれる。ということは貴女と親しい間柄……」
「あー、あー、もう知りません!」

 射命丸の言葉を小鈴は自分の声でかき消して耳を塞ぐ。これ以上話していたらボロがでると感じたのか、アガサクリスQのコーナーにあった本全てを抜き取り、射命丸を置いて一人カウンターに向かった。あの様子だとこれ以上は話してくれそうにない、彼女から正体を聞き出すきでいた射命丸だったが、ここは諦めておとなしく小説を読むことにした。
 小鈴を追ってカウンターにやってくると、小鈴はすでに本を袋に詰め始めていた。手際が良いのか、それとも射命丸に早く帰ってほしい気持ちの表れなのか。状況から見れば後者の方だろう。
 袋に詰め終わった小鈴が不機嫌そうに言う。

「借用ですか?」
「それでお願いします」

 代金を支払い、袋を受け取る。借用期間は新聞締め切りの二週間後に合わせた。
 小鈴から本を受け取った射命丸の視界の端に、古めかしい本が一冊見えた。カウンターの上に、大切そうに飾ってある。かなり年季が入っているのか、束ねているひもは今にも解れそうだ。題名は『惑星見聞録』そう記してあった。視線に気づいた小鈴が言う。

「これは売り物じゃないですよ」
「あら、そうなんですか?」

 小鈴は何処か得意げに答える。

「ご存じありませんか? この本のこと。本好きの間じゃ結構有名なんですよ。内容は恋愛小説。誰が書いたかは分かってないんですが、とっても素敵な作品です。特にヒロインのサターンがマーズに少しずつ惹かれていくところとか……」

 小鈴は本に手を伸ばし、まるで子どもの頭を撫でるように優しく背表紙をなぞった。語る姿はとても活き活きとしていて、瞳は太陽の光をそのまま反射しているかのように輝く。
 そこから少しの間、小鈴の語りは続いた。本を読んでいない射命丸が読んだ気になるぐらい長く。だが不思議とあきたり、退屈したりということはなかった。小鈴の言葉から、その物語への愛情が伝わったからだろうか。射命丸もしばし時間を忘れ、小鈴の話に聞き入った。

「好きなんですね、その本」

 小鈴の語りが一段落したところで、射命丸が尋ねた。小鈴は笑って返す。

「はい、とても。大切な本の一冊です」
「資料調達のついでに面白い話が聞けました。それではまた」
「はい、二週間後に」

 小鈴に踵を返して、射命丸は鈴奈庵を後にした。
 暖簾を潜って外に出てみれば、すでに日が傾き始め、青かった空は茜色に染まりつつある。長居が過ぎたか、射命丸は満足げに笑った。通りにはお昼のような人の行き交いはなく、寺子屋帰りの子どもたちがちらほらと見えるだけだ。
 小さく風が吹く。暑さのこもったこの季節らしい風。どこかでヒグラシの鳴き声が聞こえたかと思えば、今度は近くで豆腐屋の喇叭が聞こえる。

「熱いのは苦手だけど……夏は好きなのよね」

 独り喋りながら、射命丸はカメラを構えた。この瞬間を切り撮っておきたい。そんな衝動に駆られたのだ。沈みゆく夕陽が照らす人間の里を映してシャッターを切った。「うん、いい画になった」
 妖怪の山の向こうに夕陽が消えていく。夜はもうすぐそこまで来ている。
 射命丸は袋を握りしめ、地を蹴った。翼を大きく羽ばたかせ、夕陽のまぶしさに目を細めながら、人間の里から飛び去った。


      4


 時計が午前十時を指した。
 すでに店の開店準備を終え、カウンターの椅子に座る本居小鈴は静かに愛読書を読み耽っていた。開店してまもなくは客の出入りはほぼ無い。店内に広がるのは、小鈴が出す髪の擦れる音だけだ。
 この開店直後の数十分こそ、小鈴の一番好きな時間。朝日は上がったばかりで気温は高くない。適温な店内で、一人紅茶を飲みながら大好きな本を読む。まさに至福の一時。何度も読み返した本は、彼女の友人のような能力がなくとも、一字一句間違わずに暗唱する自信がつくほどに読み込んでいる。内容はもう全て頭に入っているが、やはり文字で読みたくなるのは本の虫ならば当然だろう。
 本を読み進めていると、ふと頭の片隅に八日前のできごとが過ぎる。あの日は来客が多かった。午前中には黒川という中年の男性が「いらなくなった本を売りたい」と、今カウンターのすぐ横にある本棚を持ち込み、十日間という期限付きで了承した。しかしまあ、売れ行きはよくない。
 黒川との商談が終わってすぐ、店で新聞を売っている天狗の記者が小鈴の元を訪れた。ここ一ヶ月ほど新聞を置きにこなかったため「もうやめてしまったのか」と思い始めた矢先のことだったので、内心かなり驚いていた。そしてあろうことか小鈴の友人の記事を書きたいと言うではないか。彼女の正体が公になることは避けたい。そうは思っていたのだが、あれはうまく誤魔化したとは言えなかった。

「大丈夫だといいけどな」

 あの天狗は勘が鋭い。記事にするためなら自らが被害者になることもいとわないヒトと聞く。小鈴は彼女のことが記事にされて大事にならないことを祈るばかりだった。
 考えても仕方のないことを頭の中からどかし、小鈴は本の世界に戻る。好きな本というのは何度読んでも飽きないものだ。本の素晴らしさを改めて感じていると、暖簾をくぐって男性客が一人、店内に入ってきた。
 ――読書の時間ももう終わりか。少し名残惜しかったが小鈴は読んでいた本に栞を挟めると、椅子から立ち上がり愛想よく挨拶をした。男性の方も小さく頭を下げて挨拶を返すと、小鈴のいるカウンターの方へやってきた。

「あの、今日この本が入荷するって聞いたんですが」

 男はカウンターに着くやいなや一枚の紙を小鈴に差し出した。出されたメモ用紙には一冊の本のタイトルが書かれているのみで、他は何も書かれていない。
 知らない本、小鈴は男に一言断ってから、本の在庫を置いている裏へとまわった。そして探し始めて二十秒ほどで、メモに書かれた本がないことに気づく。在庫といえど、そこまでの量はない。元々鈴奈庵は古本を買い取ることがほとんどで、製本して販売することは極めて稀なことだ。

「すみません、うちで取り扱ってないですね」
「ふうん。そうなんですか」

 そう言う男の口ぶりは、大して残念がっていないようにとれる。変な人、小鈴は訝しげに思いつつも、席に座った。――その時だ。

「あれ?」

 ない。先ほどまで読んでいた本が、カウンターから姿を消している。物がひとりでに動き出すことなどない――と言い切れない世界だが、まずない。だとすれば――小鈴の視線が男に向けられる。だがそれに男は動じず、顔色一つ変えない。

「ここにあった本、ご存じありませんか?」
「ああ、そういえばさっき読んでましたもんね。自分は触っていませんよ。まあ疑われても仕方のない状況ですからね、調べてもらって構いませんよ」

 自信ありげな顔をして両手をあげる。言動からして怪しいことこの上ない。小鈴は慎重に男の体を調べる。だが、男は本どころか財布の一つもっていない。もとより本を買う気はなかったということになるとますます怪しいのだが、事実なにも持っていないのだから無実と言わざるをえない。

「本もなかったことですし、自分はこれで」

 調べ終えた小鈴に踵を返して、男はゆっくりと歩きながら鈴奈庵を去って行った。
 店内に一人残されて数秒。何がどうなっているのか分からず混乱する頭をどうにか制御し、小鈴はカウンター周辺を探し始めた。だが設置した本棚にも、カウンターの影にも、探す本の姿は見えない。たった数十秒目を離した隙に、音もなく消えた愛読書。その行方を知る者はもはやいない。いるとするなら――盗み出した本人だ。だが一瞬で本を盗み出すなど人間では難しい。けれどここは幻想郷。妖怪をはじめ、異能力者など数え切れないほどいる。その中から犯人を見つけ出すなど到底小鈴にはできない。だけど幸運にも彼女にはそれにこれ以上なく長けている友人が一人いた。
 小鈴は出入り口の暖簾を手早く店の中にしまうと、「閉店」と書かれた看板を店の前にだし、強く地面を蹴った。走るのは得意ではないが、一刻も早くこのことを彼女に伝えなくては。
 それに今の私にできるのは、走ること以外ない。


      5


 人間の里の中央、そこに一際広い屋敷がある。人間の里の中では豪邸に入るクラスで、隣接している中庭は、さながら日本庭園のような作りをしている。
 朝日が昇って少し経った、午前と正午の間。今日は日差しも柔らかく、稗田邸にはゆったりとした時間が流れていた。時より中庭から自室に暖かく緑の強い風が舞い込んでは、本を読む少女の前髪を揺らす。
 良い天気だからと、襖を全開にしたのはやり過ぎだったか――少女は目に入った髪を指で解かして読書に耽る。今日の風は肌に気持ちいい。ここ最近続いた猛暑には、少女もくたびれていた。これならいくらでも読んでいられそう。そう思うと笑みが溢れた。
 その様子を中庭の塀の上で見ていた射命丸は、こちらにはまだ気づかない少女にピントを合わせてシャッターを切った。
 少女の純朴さと、内包している知性を感じさせる大人の気品。肩まで伸びている紫がかった髪。若草色の長着の上に黄色い着物を羽織った少女。小さな顔に収まった大きな瞳は、深く文章に入っていく。
 一度見たら忘れそうにない人。それが射命丸の印象だった。
 彼女の姿を見るのは、御阿礼の子が生まれたことを記事にした二十年前以来。あのときの赤ん坊が、今じゃすっかり大人の女性だ。時間の流れを感じながらフィルムを巻く。すると聞き慣れないシャッター音に気づいた少女は本から目を離し、射命丸の方へ視線を向けた。
 正面を向いた少女にもう一度シャッターを切る。レンズ越しにこちらをじっと見る彼女の瞳が見えた。再びフィルムを巻きながら少女へと歩み寄る。少女も読んでいた本を閉じて、射命丸の方へ向きなおった。少女の表情はとても穏やかで、こちらを警戒しているようには見えない。射命丸が先に口を開く。

「稗田阿求さん……いえ、アガサクリスQ先生。小説、面白かったですよ。全巻読むのに一週間も掛かりましたけどね」
「……ありがとう。直接感想を聞く機会なんてないから、ちょっと気恥ずかしいけど」

 射命丸が素直に感想を述べると、少女、阿求もそれを否定することなく笑い返す。
 その対応に射命丸は少し驚いた。もっと慌てたり、否定したりするかと思っていたのに。だが阿求にそんな様子はなく、純朴な笑みを浮かべているだけだった。
 だがそんな阿求の顔が少し曇る。

「でも一週間も本を読んで大丈夫なの? 文々。新聞、ここ一ヶ月近く出てないのに」

 突然の阿求の言葉に、射命丸の背中に冷たい汗が伝う。周りの温度が、少し下がったようにも感じられた。
 射命丸の記憶が正しければ、阿求が生まれた時に遠くから写真と撮ったきり彼女とは会っていない。幻想郷縁起の編集者として射命丸の名前を知っている可能性はあるが、人間に変装した状態の射命丸を見て、そこまで導き出せるものなのか。
 心底疑問に思った射命丸は尋ねる。

「どうして私が文々。新聞の記者だと?」
「外れていると恥ずかしいんだけど……」

 阿求は正座を崩して楽な姿勢をとり、小さく息を吐く。そしてまっすぐ射命丸を見据え、話し始める。

「そのカメラ」

 阿求が射命丸が持つカメラを指さす。

「人間の里でもカメラを持っている人間はいるけど、二眼レフのカメラは市場には出回ってない。でも外装を見る限りじゃ目立った傷や汚れはないし、なにより正面にイニシャルが彫ってあるから、香林堂のような中古店で買ったようなものじゃない。となるとかなり前から使っているか、誰かから譲り受けたとか。胸に挿しているペンと手帳を合わせると、仕事は出版関係。写真を使うのは作家より記者。でも人里の新聞記者なら必ず事前に連絡があるはずだもの。ましてや中庭から入ってこないわ」
「それは……失礼しました」
「それはいいの、気にしてないから。つまり人ではなく妖怪の記者、ということになる。この幻想郷で新聞を書ける妖怪は天狗しかいない。その中でも人間の里の話題を多く取り入れるのは『花菓子念報』と『人間の里版 文々。新聞』の二つだけ。でも『花菓子念報』を書いている姫海棠さんという方は、念写能力で新聞を書かれているので取材には来ないでしょう? となれば残るは一人」

 阿求は机の下に置いてあった幻想郷縁起を取り出す。ページをめくり、目的の項目を見つけると、それを射命丸に見せるように持ち替えて、少し笑いながら言う。

「伝統の幻想ブン屋、射命丸文さん……当たっていますか?」

 小さな情報を見逃さず拾い上げる観察眼。拾い上げた情報をつなげ、発展させていく連想力。そしてそれらを肯ける知識。これが作家、アガサクリスQなのか。
 射命丸は驚きと共に、目の前の彼女に興味を抱いた。もっと彼女を知りたい、彼女がどう考え、何を見ているのか。それが知りたくなった。
 だが一方の阿求は、射命丸がなかなか言葉を返さないことから、徐々に顔に不安の色が見え始めていた。それを見た射命丸は思わず笑う。
 当たっていますよ、その言葉を聞いて阿求の表情が綻んだ。聡明な彼女だが、案外すぐ顔に出るタイプのようで、そういったところには幼さを感じる。もっとお堅い人柄を想像していた射命丸は、そのギャップにまた笑みを溢す。そんな射命丸を見ながら阿求は言った。

「今日は取材にきたんでしょ? どうぞ上がって」
「ではお邪魔します」

 縁側に上がり、そのまま阿求の部屋へと足を踏み入れる。部屋の中は一人の部屋としてはかなり広く、十一畳はありそうだ。だが、そのほとんどが本で埋まっていて、実際に使えるのは阿求が座っている周辺の四畳くらい。射命丸はその中で本が積み上がっていないスペース、おそらく阿求が出入りするために空いてると思われる座布団の後ろに腰を下ろした。

「ごめんなさい、窮屈で」
「いえいえ、お構いなく。私も急に来てしまいましたし」
「天狗の記者さんから"取材したい"なんて連絡が入ったら、それはそれで家の中が大騒ぎになっちゃう」
「それもそうですかね」

 射命丸と差し向かいに座って話す阿求に、警戒している様子は見られない。出会ったばかりの二人の間に信頼関係は無い。だが天狗は妖怪の山へ入りさえしなければ、人間に好意的であることを阿求は知っている。
 阿求は言った。

「取材のことだけど、それは稗田阿求として? それともアガサクリスQとして?」
「それはもちろん……」

 射命丸の口が止まる。

「一つ聞いてもいいですか?」
「なに?」
「やはりというか、正体が知れ渡るのは、不味いですか?」

 ペンネームを使っている時点で容易に想像はできたが、射命丸が確認を入れたのは、切り出した阿求の顔が少し強ばっていたからだ。

「うーん」

 阿求は少し俯きながら言う。

「不味い……わけでもないけど」
「気は進みませんか?」
「うん、進まない。小説は決まった相手に送るわけじゃないから、書いている誰かなんて、読んでいる間はどうでもいいことだと思う。でもそれが私だと知れたら、きっと読んでいるとき何処かで私の顔を思い浮かべて、素直に物語を楽しめなくなるんじゃないかって」
「なるほど……確かに阿求さんは人里では知らない人の方が少ないですからね。お立場もあるでしょうし」
「理由はもう一つ」

 俯いていた阿求が顔を上げた。

「そこに私があってほしいの」

 物憂げな表情を浮かべ、左手で髪をたくし上げる。開けたままにしてある襖の向こうから、暑さのこもった風が室内に舞い込んだ。その風につられて、阿求の視線も庭に向く。「稗田阿礼の転生体、九代目御阿礼の子じゃなくて、たった一人の私が、そこにあってほしい。転生すれば、今の人格は消えてしまう。完全記憶能力といっても、転生以前の事はほとんど思い出せない。残るのは私じゃなくて知識だけ」
 部屋に差し込む光に阿求の瞳が鈍く輝く。静かに目を閉じて息を吐くと、射命丸の方へ向き直り、笑う。

「それが今更になって、少し寂しくなったの」

 笑顔に務めようとする彼女。その少しぎこちない笑みに、射命丸は言葉を詰まらせた。うまく言葉が見つからなかった。
 阿求は続ける。

「だから私が作った本は、私が生きた証。本なら燃えない限り後世に残るでしょ? 私がいなくなった後の世界でも、誰かがそれを読んで私のことを考えてくれたなら、生きてよかった……そう思える」

 言い終えると、室内は静寂に包まれた。
 その中で射命丸は小さく葛藤していた。これを逃したら次はないかもしれない。これに絞っていただけに残る時間も多くはない。だがそれと引き換えに小さな願いが潰えてしまう。自分の仕事か彼女の願いか。

「射命丸さん?」

 阿求が射命丸の顔をのぞき込む。

「ごめんなさい、変な話して」
「いえ……うん、やめます。正体を書くのは」
「……いいの? 余計なお世話かも知れないけど、一週間もかけて小説を読むなんて新聞記者には普通あり得ない。それってかなり切羽詰まっているってことなんじゃ」
「まあ……その通りなんですけど」

 取材対象に心配される新聞記者。なんと哀れなことか。

「新聞は皆が知りたいと思う事実を伝える役割があります。でもそれで誰かが傷ついたり、悲しんだりするのは……いやです。もちろん伏せちゃいけない事実もありますけどね」
「それが私一人でも?」
「ええ、もちろん阿求さん一人でも、です。阿求さんだって自分が書いた本で、誰かが悲しんだりするのはいやじゃないですか?」

 それを聞いた阿求は、射命丸を見つめたまま少し黙り込み、そして小さく笑う。その表情に、ぎこちなさはもう無い。それを見て射命丸の気持ちも少し楽になった。

「ああ、でも」

 射命丸が阿求にぐっと顔を寄せる。

「アガサクリスQについては記事を書きたいので取材はしますよ。一面埋まるくらい」
「お手柔らかに」

 言い終わると阿求は声を溢して笑った。
 射命丸は首を傾げる。

「どうかしましたか?」
「ちょっとね、少し幻想郷縁起を編集しなくちゃいけないかもって」
「それはどういう……」

 阿求は立ち上がり部屋を出た。縁側で腰を下ろし、下駄を履いたところで振り返る。「貴女が素敵なヒトかもってこと」
 振り向いた彼女は、差し込む日の光に負けないくらい眩しく映る。
 射命丸も阿求を追って部屋を出た。

「お出かけですか?」
「ううん。取材するなら少し歩かない? やっぱり部屋じゃ窮屈だし」
「阿求さんがそうしたいのであれば」

 射命丸も靴を履いて阿求に並び立つ。太陽はちょうど頭の上。正午になったようで、塀の外から人々の活気溢れる声が聞こえてくる。
 二人は歩幅を合わせながら、塀にある裏口から稗田邸の外に出た。通りは人が行き交いしているせいか、稗田邸より少し暑い。遮蔽物がないのを良いことに日差しが肌に刺さる。
 手で仰ぎながら射命丸は聞いた。

「何処に行きます?」
「うーん、特に決めてない。そこら辺をふら――としようかなって」
「案外ノープランなんですね」
「……意外?」

 尋ねられた射命丸は首を縦に振り、自分が思い描いていた阿求の人物像をそのまま伝えた。それを聞いた阿求は、やっぱり、と言いたそうに項垂れる。人との交流が少ないせいか、阿求のイメージは頭のいいお堅いお嬢様、というのがどこかにある。阿求に触れればそんな誤解はすくに解けるだろうが、人間の里の象徴ともいえる稗田家の当主に気軽に話しかけられる人物は、ごく一部に限られるだろう。それは彼女に親しい者か、それともただの礼儀知らずか。

「はぁ……これでも気分屋なところもあるのに」
「そうなんですか? これまた意外です」
「風の向くまま、気の向くまま。散歩なんてそんなものよ」

 歩き始めた二人は大きな人の流れに加わった。本当に気分屋なようで、時より立ち止まっては別の道に入る。好奇心に決して抗わず、気が引かれる方向に足を伸ばす。彼女の足取りは自由そのものだった。射命丸は手帳とペンを取り出して、阿求の半歩後ろをついて歩いた。

「趣味は散歩ですか?」
「……さあ。そうかも」
「部屋にもたくさん本がありましたけど、一ヶ月でどれくらいお読みに?」
「大体百冊くらい」
「百冊って……一日三冊も読まれるんですか?」
「時間だけはあるもの。でも整理整頓は少し苦手かも」
「きちんとしてそうなのに」
「本を片づけている最中に、また本を読み返し始めちゃうから」

 阿求は上目づかいに射命丸を見た。

「整理整頓のところカットして。恥ずかしいから」
「……どうしましょうかね」

 悩む素振りを見せる射命丸に阿求は目で訴える。
 ……目力の強い人だ。やりとりを記録していた手帳に一本斜線が入る。
 他にどんなことを尋ねるべきか。皆が知りたがるような……そうだ、相手は作家なんだから、やはり好きな本や最近読んだ本など聞くべきだろう。

「最近読んだ本とか教えていただけますか?」
「新作のための資料集めばかりよ。家具やインテリアのカタログとか洋服の資料とか」
「ふうん。そんなものまでお読みになるんですね」
「知っておいて損はないもの。ちょっとしたインテリアも、推理の重要な取っかかりになるかもしれないし」
「それじゃ、今まで読んだ本で一番気に入っているものは?」
「一番……決めるの難しいかも」
「それでしたら一番影響を受けたとかでも」
「なら私の本棚の一番左に置いてるシリーズの二巻。百四十三ページの一行目から五行目にかけて。その部分が好き。執筆中に立ち止まったとき、新しく何かを書き始めるとき、そこの部分を読み返すの。内容は全て覚えているけどやっぱり文字で見たくて」

 ページと行数を手帳に記録している射命丸の手が止まる。

「タイトルのほうは?」
「秘密。教えない」
「えっ」

 手帳から阿求の方へ視線を持っていくと、大きな瞳もこちらを向いていた。
 小さな顔に、大きな瞳。顔を見ようとすれば必然的に瞳に目がいく。異性ならときめいていたかも。そう思わせるほどの目力を感じるのはそのせいかもしれない。

「細部までわからない方がミステリー作家っぽいでしょ?」

 微笑む彼女の足は大通りから脇道に入っていく。日差しに熱せられた大通りとは違って建物が遮蔽物となり、少しひんやりとしている。道行く人もいない。

「私も聞いていい?」
「かまいませんよ」
「射命丸さんはどうして私だと思ったの?」

 鈴奈庵の彼女のことを話したらどうなるだろうか。いや、やめておこう。あれでも一応隠そうとしていたようだし。彼女が足がかりになったのは事実だけども。
 射命丸は手帳のページを遡る。

「作品は全て鈴奈庵で出されていましたから。本来、鈴奈庵は貸本屋。里には販売を専門とした本屋だってあるのにどうして鈴奈庵を選んだのか? そこから考え始めました」
「そこに目をつけられちゃうと痛いわ」
「原稿を持ち込みますから本居小鈴には正体がバレてしまいます。本居小鈴にならバレても問題ない……そう考えるなら、範囲は本居小鈴の交友関係を調べれば絞れますよね。本を刷るだけの財力と物語を紡げる文才、そして彼女と親しい人物」
「私しかいない……ってことね。その推測だけで家に来たの?」
「人が人だっただけに確証がとれるまで動きたくはなかったですが……友人から貰ったヒントと照らし合わせて、かなり人物像が一致していたので思い切って取材に来ました」
「……そのヒント、見せてもらえる?」

 射命丸は姫海棠から受け取ったメモを阿求に渡す。受け取ったメモを見て、阿求は首を捻ったり驚いたりと、口にせずとも様々な感想を告げていた。

「これを書いた友人さんってどんなヒト?」
「どんな……と言われましても。勘の鋭い面倒臭がり屋としか」
「面白そうなヒト。今度会ってみたい」
「秘密、守れますかね……」

 そこで射命丸はメモを受け取ったときの約束を思い出し、阿求に色紙を差し出す。首を傾げる阿求に射命丸がサインを頼むと、彼女は快く引き受け、手持ちのペンですらすらとサインを書いた。こうして今、阿求と射命丸が一緒に歩いている状況を作ったのは、姫海棠のおかげと言ってもいい。なら約束は守らなければ。
 細い通路を出て大通りへと二人は戻ってきた。大勢が流れる中で、あるものが阿求の目に止まる。阿求の視界はそれを捉えたまま動かなくなる。

「阿求さん?」

 射命丸が尋ねる声も、阿求の耳には入らない。
 それに吸い寄せられるように人の流れを切って歩き始める。その後を射命丸も追った。
 一体何を見つけたのだろう。彼女が興味を抱いたものが気になった。
 しかし阿求が足を止めた先にあったのは、射命丸には見慣れたものだった。
 それは「列車開発中」という見出しのポスター。内容は見出しそのままで、列車の開発について書かれている。近況報告や予定などが大半だ。

「これ……本当なの?」
「ああ、確か妖怪の山の方で河童が作っているのを見ましたね」
「本当に! 列車ができるのね!」

 今日一番の食いつきに、射命丸は少々困惑しながらも首を縦に振った。阿求は心底嬉しそうに何度もそのポスターを見ていた。どうしてそんなに食いついているのか、射命丸には分からないが、小さな子供のようにはしゃぐ阿求を見ていると、何だか楽しかった。
 しかしその笑顔が不意に消える。何かに気づき、その大きな瞳に寂しさと悲しみの色が見え始めた。

「どうしました?」
「この列車……どうやら完成は十年以上先の話らしいの。確かに列車を走らせるためには専用の道を作らなきゃいけないし、一から作るならそれぐらいの年月が掛かってもおかしくないんだけど……私は、間に合わない」

 尻すぼみになってしまい最後の言葉は聞き取れなかったが、射命丸は稗田邸での阿求の話を思い出して、彼女が言わんとしていることを理解した。そして同時にいたたまれない気持ちになる。普通の人間なら何事もなければ十年先の未来はあるだろう。
 しかし阿求にはその先はもう無い。人はいつ死ぬか分からないから時間の経過をぼんやり眺められる。だが寿命が分かったそのとき、果たして同じような視界を保っていられるだろうか。

「乗れますって。もしかしたら予定より早く列車ができるかもしれませんし」
「……そうね、ちょっと後ろ向きになってたかも。列車に乗るために抗ってみる」

 視線を落としていた阿求が顔を上げる。その表情は少し和らいでいた。

「そうだ、射命丸さん。一緒に乗らない? きっと素敵よ」

 翼を持つ射命丸には列車など不要とは分かっていたが、阿求の誘いに射命丸は首を縦に振る。ついでに列車の取材もしてみようか。ほんの少し先の話になるが。

「約束よ。あっ、もし駄目でも約束は持ち越しだから」
「持ち越し?」
「そう、次の私なら確実に乗れるだろうし……でも次の私が約束を覚えているか微妙だから、射命丸さんの方から声をかけて」
「……分かりました。約束ですね」
「約束よ? まあ、百年と少し先の話になるんだけど」

 気づけばすっかり元に戻った阿求は、先ほどの表情が嘘のように笑いながら右手で自分の毛先をいじっている。

「でもこれでなんだか次が楽しみ」
「そうですか?」
「ええ。転生すると百年くらい時間が進んでいるから人間関係とか真っ白になるの。でも百年先の世界でも私を知ってるヒトがいるなら、いつもより気が楽」

 それならよかった。射命丸は胸をなで下ろす。少し悲しい約束だが、それで彼女の今が少しでもいいものになるのなら、それに越したことはない。
 射命丸自身、どうしてそこまで阿求に肩入れするのかよく分からないが、単に彼女の人柄に惹かれた――のかもしれない。
 そう思っていたとき射命丸の耳が何かを捉える。

「誰かこっちに来ますね」
「やっぱり耳はいい方?」
「鼻よりは効きますよ」

 人波をかき分け二人のいる方へ走ってくる足音。随分と走ってきたのか、足音から疲労の色が見える。そしてついにその足音の主が二人の前に姿を現す。
 飛び出してきたその人は、二人もよく知る人物だった。

「小鈴じゃない」
「見つけた。屋敷に行ったけどいなくて、散歩じゃないかって言われたから……」

 荒々しく肩を上下させる小鈴は、声を絞り出して二人に歩み寄る。小鈴は阿求しか見てないからか、彼女の瞳には射命丸の姿は映っていない。
 阿求は見かねて小鈴の背中を摩った。

「とりあえず落ち着いて」
「お、落ち着いて居られないよ……緊急事態なの」

 息を整えながら、小鈴は阿求の肩を両手で強く掴んだ。小鈴と長い付き合いの阿求だが、ここまで必死な顔を見るのは初めてだった。
 阿求は表情の困惑の色を強める。

「何? どうしたの?」
「私の……私の本が盗まれたの。一番大切な本なのに」
「一番大切って……まさか」
「……惑星見聞録」

 そのワードを聞いた途端、阿求の目の色が変わった。そして今度は阿求が小鈴の肩を両手で強く掴んだ。
「本が盗まれたときの状況、詳しく聞かせてもらえる?」

 射命丸はたずねる彼女の瞳から強いものを感じていた。それが友情なのか正義感から来るものなのかは分からない。

「ごめんなさい」

 阿求は射命丸の方に向き直ると、申し訳なさそうに視線を逸らす。

「いえいえ、緊急事態のようで……もしよろしければ私もご一緒しても?」
「かまわないけど……たぶんもう取材はできないし、ここで時間を使ったら……」
「大丈夫ですよ。材料は集まりましたし、後は阿求さんをよく知るだけです。いざとなったら私も協力しますし、お邪魔であれば言葉通り気配を消します」
「それじゃ……お願い」

 阿求の承諾を得ると、射命丸は小鈴の顔をのぞき込む。そこでやっと目が合った小鈴はいきなり現れた射命丸の顔に驚いて勢いよく後方へのけぞった。そして射命丸と阿求の顔を交互に見て大きくため息をつく。

「バレたんだ……」
「でも記事にはしないって」
「ふうん、意外。新聞出すためなら見境無いと思ったから」

 少し落ち着いてきたのか小鈴も普通に会話できようになってきた。阿求はそれを見計らうと、辺りを見渡し、一軒の店を指さした。

「長い話になりそうだから」

 言われてみればすでにお昼時を少し過ぎていた。阿求が指さす店以外からも、食事を終えた人々が続々と出てきている。
 阿求は小鈴の隣、射命丸はその後ろを歩いて店に入った。やはりお昼時が終わったからか、店内に客の姿は少ない。三人が適当な席に腰掛けると、それに気がついた店員の一人がそのテーブルに駆けてくる。
 店員が注文をとりその場を離れると、小鈴は二人に今朝鈴奈庵で起こった事を話し始めた。だがその話を聞いた二人は難しい顔をしていた。それもそうだろう。店内には小鈴とその客しかいなかった。そして小鈴が目を離した一瞬の隙に本は消えたという。
 阿求が首を傾げた。

「そのお客さんが犯人じゃないの?」
「身体検査したのに本どころか何も持ってなかったんだよ。そのとき他のお客さんはいなかった。店内も探してみたけど何処にもなかった。だから妖怪がらみかと思ってアンタを探してたの」
「事情は分かったけど……今回の犯人が妖怪っていう線は少し薄いかも」
「えっ、どうして?」

 驚く小鈴に、阿求が続けた。

「まず文字を読めて、小説を読みたいなんて妖怪は少ない。しかも人間の里の中で『惑星見聞録』の存在を知っている方が珍しいのに、妖怪が欲しがるのは不思議だと思う」
「まあ……確かに。で、でも」
「その点どう思う?」

 話を振られた射命丸は、頭の中で色々な手段を考える。
 どうすれば誰にも気づかれずに本を奪取できるか。自分のように目にも止まらぬ速さで移動すれば可能ではある。しかし鈴奈庵の店内でそんな事をすれば、辺りがめちゃくちゃになってしまう事は言うまでもない。他にも幻術をかける、瞬間移動、空間操作。思いつくにはつくが、どれも本一冊盗むにしてはオーバーだ。そんなことをしなくても、妖怪ならば力にものを言わせて奪ってしまえばいい。

「やっぱり妖怪の線は薄いかと。可能性がないとは断定できませんがね」
「文さんの目から見てもそうなんですか? うーん、じゃあ人間の仕業なの?」
「おそらくね。どんなトリックを使ったのかは分からないけど」

 テーブルが重い空気に包まれ始める。妖怪の線は薄い。それしか分かっていないということは、何も分かっていないに等しい。人間の仕業だと分かっていても、本を盗み出したトリックが分からなければ本を見つけることはできない。

「お待たせしました」

 店員がテーブルに紅茶を運ぶ。ごゆっくりどうぞ――と、少し無愛想な店員は三人の重い空気を察したのか静かに去って行った。
 射命丸は紅茶を啜りながら目の前に座る二人を交互に見る。
 小鈴の方はやはり大切な本が盗まれたショックが大きいのか、いつものような明るさを見せず、時々俯いては小さくため息をこぼす。
 一方阿求の方は難しい顔をしながら紅茶を飲んでいた。おそらく本を盗み出した方法について考えているのだろう。現状有力な手がかりの中での推理は想像の域を出ない。となれば彼女の知識だけが頼りだろう。それが事件解決の鍵になればいいが。
 沈黙が続く中、店内に柔らかい金属音が響いた。どうやら十五時になったらしく、少しすると店内の設置されている時計も鳴り止んだ。

「小鈴、時間大丈夫? 今日は子どもたちに本を読んであげる日じゃなかった?」
「いけない、そうだった」
「詳しい話は明日にでも。店が開いたらそっちに行くから」
「わかった、今日はありがとね」

 小鈴は自分の分の代金をテーブルに置くと、走って店を飛びだした。自分の大切な本が盗まれたというのに、子どもたちのために本を読み聞かせに行くとは大したものだ。射命丸はカップに残った紅茶を飲み干すと、小鈴が走り去っていく姿が見えなくなるまで、ガラス越しに見送った。
 そして再び阿求と二人きりになる。射命丸にとっては好都合なのだが、阿求の表情は浮かない。

「あの子、大丈夫だといいけど」
「心配ですか?」
「本のこと、ショックだろうし。それにこれ」

 阿求の視線の先には、先ほど小鈴が置いた代金と、ほとんど手つかずの紅茶があった。紅茶も口につかないほど落ち込んでいるのに、子どもたちの前では笑顔でいなくてはいけない。彼女にとって今日ほど辛い日はないだろう。

「阿求さん、この後の予定は?」
「お散歩っていう気分じゃなくなっちゃったから、家に帰ると思う」
「それじゃ私も帰宅ですかね」
「ごめんなさい、中断しちゃって」
「それでもいい話が聞けましたし、お散歩も楽しかったですから」
「なら……いいんだけど」

 阿求は残っていた小鈴の紅茶を飲み干して、カップをテーブルに置いた。

「小鈴の本の件が解決したら、また一緒にお茶でもしない?」
「じゃあそのときは、ゆっくりお話しできますね」

 席から立つと、射命丸は小鈴が置いて行った代金を手に取る。そしてそのまま三人分の勘定を済ませて店を出た。残る猶予は一週間を切っている。早速帰って新聞の製作に取りかからなければ。
 人間の里で翼を出すわけにも行かず、焦る気持ちを抑えて歩き出す。どんな記事にするか……阿求から聞いた話を加えつつ、自分の感じたことや客観的な意見も取り入れたい。となれば誰かの意見を聞きたいのだが、アガサクリスQの作品は人間の里で流行っている小説、射命丸には人間の知り合いは少ない。小鈴はあんな調子なため話を聞けそうにない。となると思い当たるのはあと三人。だがその中の一人は到底小説など読みそうにないため実質二人。

「さて、どちらに聞いたものか」

 呟く射命丸はふと足を止めた。
 気がつけばちょうど鈴奈庵の前。中からは小鈴のものと思われる声が聞こえてくる。どうやら予定通り子どもたちに本を読み聞かせているようだ。暖簾をくぐって中を見てみれば、幼い子どもたちに絵本を読み聞かせている小鈴の姿があった。その顔に先ほど喫茶店で見せていた物憂げな表情は一切無く、まだ知らぬ世界を子どもたちに語りかける優しい表情を浮かべている。
 きっと彼女は本当に本が好きなのだろう。だから辛いことがあっても本を読むことをやめない。本の素晴らしさを伝えることをやめない。
 本、見つかるといいけど。
 私は彼女が書くミステリーの主人公のように推理はできない。私にできるのは調べて、それを裏付ける証拠を見つけて、それを記事にすること。新聞を置かせてもらっているのだから、できることなら私も力になりたい。でもそれは聡明な彼女が何かしらの答えを出してからでも、遅くはないだろう。

      ◇◆

 奇妙な出来事が起こり、主人公がその真相を暴き出す。それがミステリーのあり方だ。
 そしてそれは主人公、もしくは主人公と近しい人物によって語られることが多い。しかしそれは一つの物語の見方であり、他の登場人物の視点なら、誰の視点でも書かれていなかったら、物語のあり方は無数に広がっていく。一つの物語にも様々な側面があり、その中の一つしか見ることができなければ、簡単に騙されてしまう。
 落ちそうな夕日が照らす縁側で阿求は一人、小説を読み耽っていた。
 夏といえどこの時間帯になれば涼しい風が吹く。それによって暑さも中和され、読書には快適な空間となる。夕日の優しい光によって照らされた文面は、心なしか文字に暖かさを感じられる。昼間のことさえなければ、どんなにこの雰囲気を楽しめただろうか。

「たった一人の容疑者も犯人じゃない……誰が……」

 気になり始めたら本に集中できない。阿求は読んでいた小説をパタリと閉じて、昼間に小鈴から聞いた話を反芻する。
 物事には必ずストーリーがある。犯人が誰であれ、その人物が犯行に及ぶに至って今回の筋書きを考えたはずだ。ならば起こった出来事から考えられたストーリーを読み解くのは不可能ではないはず。そしてそのストーリーをたどれば、必ず人にたどり着けるはずだ。

「難しい顔してるよ」

 沈黙に包まれた空間に、突然声が広がった。
 しかし阿求は驚くこともなく、声の主の方を見て微笑みかける。

「ごめんなさい。ちょっと考え事」
「ふうん。いいけど少しはこの部屋、片付けたら?」

 声の主の足元は無数の本が積み上げられ、まさに足の踏み場もない。だが彼女は軽い足取りでそれらを飛び越えると、縁側に座る阿求の隣に腰を下ろした。

「そうね……少し片付けないと」

 部屋を見渡して阿求は小さくため息をつきながら、手に持っていた本を近くにあった本の山に積み重ねた。今日のように突然来客がくることもあるだろうし、本が整頓されていることにこしたことはない。
 入れ替わるようにして阿求は重い腰を上げて、近くにあった本の山を持ち上げ本棚へ向かう。彼女の本棚の並べ方は著者名の五十音順。本棚は部屋の三面を埋め尽くしているので、左へ行ったり右へ行ったり。本の整頓だけでもまあまあの労働だ。しかし嫌になることはない。本の表紙を見るだけでも阿求にとっては楽しいのだ。

「あっ、この本……懐かしい」

 そしてそれが阿求の部屋が片付かない理由にも結び付く。片付け始めれば、次第に読書の時間が始まってしまう。たとえその本のすべての内容を記憶していても、これは抑えられない。

「ちょっと、片付けは」
「あっ……ごめんなさい。すぐ片付けるから」

 我に返った阿求は急ぐとまでは行かないが、テンポよく本を棚へ収めていく。すべて大切な、愛着のある本だ。はやりこうして本棚に収めるのが一番いい。
 そう、本に愛着があるからこそ、今回の小鈴の件は見過ごせない。小鈴がいかにあの本を大切にしていたか、阿求はよく知っている。だからどうしても取り戻してあげたかった。
 部屋に積み上がっていた本をすべて本棚に収めるのにはそれなりの時間が掛かったが、部屋は自由に寝転べるほど片付いた。
 さすがに疲れた。阿求は軽く腰を叩きながら座布団に座り込む。汗をかくほどではないものの、やはり動きづらい着物での作業は体力を使う。
 そこで不意に戸が開いた。若い女性が顔を出し、小さく頭を下げる。

「阿求様、そろそろ夕餉の時間です」
「わかった。今行く」

 阿求はまだ疲労が抜けない足で立ち上がると、女性の後に続いて部屋を出る。
 無人になった部屋。開けたままの障子の向こうから小さく風が吹き込むと、鈴の音が広がった。







      第2話「始まりのQ/誰も知らない真実」


      1


 午前八時。昇る朝日はまだ低い。
 昨日とは打って変わって今朝は肌寒いくらいの風が吹く。人間の里の中も人気がなく、行く道は伽藍堂としている。歩くごとに辺りに広がる靴底の音は、よく耳の中に響いた。
 昨日のように暑くなると踏んでいたのに、誰もいない道を一人歩く射命丸は、半袖のシャツから出ている自分の腕を摩った。薄らと雲がかかっている空は、しばらく晴れそうにない。だが湿気は健在で、鞄の中のフィルムが駄目になってしまわないか、常に気を揉まされる。――それに他の心配事もあった。
 静かに風に吹かれる鈴奈庵の暖簾。中からは話し合うような声が聞こえてくる。
 もう彼女は来ていたのか。少し出遅れたことに焦りは感じなかったが、早歩きで暖簾をくぐった。

「おはようございます」
「すみません! 今取り込み……ああ、文さんでしたか」

 カウンターでうつ伏せに寝ていた小鈴が飛び上がる。だが入ってきたのが射命丸だと分かると、すぐに陰鬱な表情を見せた。ため息をついては椅子に座り直し、自分の腕の中に顔を埋める。どうやら落ち込み具合は昨日よりも増しているようだ。

「おはようございます。射命丸さん」

 小鈴とは違う声が射命丸に返ってくる。陳列する本棚の影から姿を現した声の主に、射命丸は戸惑う。

「お、おはようございます……阿求さん」

 阿求が店の中に居ることは分かっていたが、驚いたのはその格好だ。
 いつもの若草色の長着の上に黄色い着物ではなく、表情の違うレースがふんだんに使用された白い長袖のワンピース。元々透明感の強い顔立ちをしている阿求に、とてもよく似合っている。いつもは着物で決して見えない細い腕の輪郭や素足は、太陽の光を知らないのかと思うほど白い。阿求が着物しか着ないイメージを持っていた射命丸にとっては衝撃的だった。

「射命丸さん?」
「……ああ、いえ。着物を着ていない阿求さんは初めてだったもので」
「さすがに一年通して着物は無理。夏はすぐ蒸れちゃって。今日は湿気が多いけど肌寒くなりそうだったから厚すぎず、薄すぎない服がいいかなって。変?」
「とてもお似合いですよ。写真、撮ってもいいですか?」

 射命丸がカメラを構え始めると、阿求は「恥ずかしいから駄目」と小鈴のいるカウンターの影に隠れてしまった。
 もったいない、新聞の表紙にしたらどれだけ売れるだろうか。

「……それでどう?」
「やっぱり本棚にはない。抜けている本もないし、変な本が紛れてもいなかった。とっさに本棚の中に紛れ込ませたわけじゃなさそう」
「だよね。私も昨日徹夜で確認したもん。何処にもないってことは、やっぱり盗られたんだって」
「うん……その線で考えてみましょう」

 小鈴と阿求は立ち上がると、カウンターの奥に姿を消した。出遅れたせいで少々流れに乗れない射命丸がその場に立ち尽くしていると、奥の暖簾から阿求がひょっこり顔を出す。

「射命丸さん、早く」
「あっ、はい」

 これは見てもらう時間はないか、射命丸は鞄を指で軽くなぞると、すぐに阿求たちが居る方へ駆ける。カウンターを越え、暖簾をくぐると、底は製本室のような場所が広がっていた。棚に置かれている大量の紙に、部屋に漂うインクの香り。どうやら鈴奈庵で製本される本は、ここで刷られているようだ。
 そんな広い部屋の片隅。設けられた休憩用のテーブルと椅子に二人は腰掛けていた。その二人に倣い、射命丸も空いている席の一つに座る。

「どうですか? 本探しの方は」
「阿求と一緒に探したけど、店内にはなかったです……本当に今何処にあるんだろう」
「実はあの後から少し考えたんですけど、あの本、かなり年季がはいっていたじゃないですか? 紐も今にも解れそうでしたし」
「紐をちぎって本を分解したってこと?」
「そうすれば本の間とか、ちょっとしたすき間に隠せますし、バラバラに隠せば見つかりづらいじゃないですか」
「はぁ……それは無理」

 ため息をつきながら阿求は射命丸の意見をバッサリ切った。

「小鈴が身体検査をしたとき、容疑者は何も持っていなかった。紐は何処にいったの?」
「ああ……紐も隠したんじゃ」
「それにあの本は総項数二百四十ページ前後はあったはず。つまりは分解したら百二十枚近くなる。それだけの紙を小鈴が裏に下がった僅かな時間でその枚数を隠しきるのは不可能よ。人間なら」
「もう。しっかりしてくださいよ、文さん」

 普段なら頭がきれる射命丸も、今回ばかりは役に立てそうにない。人間目線で考えるなど、試みたことすらない。――そうなると、今回の出来事は不可解を極める。まず犯人は妖怪か、それとも人間か。話はそこから始まる。妖怪なら深く考える必要はないだろう。
 幻想郷に住む妖怪にとって、誰にも見られずに本を盗むことなど容易い。だが、盗むメリットがある妖怪は限られる。例えば私のように人間に近しい存在、となればある程度は絞れて……。

「む? 誰もいないのかえ?」

 表の方で女性客の声がする。聞き覚えのある声だ。しかもそれは今し方頭に思い浮かべた条件とぴったり合う人物。……厳密に言えば人間ではないのだが。返事をしようとした小鈴を手で押さえ、射命丸は一人席を立った。射命丸の行動に小鈴はただ首を傾げ、阿求は射命丸の表情から何かを察したのか、何も言わなかった。
 奥の暖簾をくぐり店内売り場に出ると、そこには声の通り一人の女性が立っている。奥から出てきたのが店員の小鈴ではなく、射命丸だったことに少し驚きの表情を見せたが、すぐにいつもの表情に戻る。
 腰の辺りまで伸びた落ち着いた茶色の髪は、低身長ながらも大人っぽさを感じさせ、黄緑色の紋付羽織を着込んだ格好は先日までなら暑くてたまらないだろうが、今日のこの気温では大して苦にならないだろう。頭につけた葉の髪留めは、変装する気があるのかどうかを疑わせる。よく知る相手だが、関係が良好というわけでもない化け狸、二ッ岩マミゾウの姿がそこにあった。

「ほう、お主が出てくるとは意外じゃのう、烏天狗」

 ほっほっほ、少しオーバーなリアクションを見せる。いつもそうだが、言葉も、表情も、何もかもが胡散臭い相手だ。射命丸は自分の考えた条件に寸分違わず当てはまる妖怪を前にどう切り出すか、慎重に言葉を選ぶ。

「昨日ここで何があったか、知ってる?」
「はて、なんじゃろうな。小鈴はいろんな催しを次々と考えつくもんで、儂の頭を持ってしても覚えきれん」

 茶化すようにひらりと交わしてくるが、向こうから踏み込んで来る気配はない。ならばこちらから行くべきか。

「昨日、小鈴ちゃんの本が無くなったの」
「ほほう……それで昨日は目も当てられないくらい凹んでおったのか。あの娘があんな風になるのは稀でのう。今日は様子を見に来ただけじゃ、そう身構えんでもいい」

 本当に盗難事件に関して知らないようで、マミゾウは「それにしても本が盗まれるとはのう……」と独り言を呟いて、カウンターに寄りかかった。警戒を完全に解いたわけでもないが、話を聞いた感じマミゾウはこの店の常連ということになる。ならば本を盗まずとも手にすることはできるだろう。心優しい小鈴のことだ、「読ませてほしい」といえば快く貸してくれる。小鈴と関わった物ならすぐにわかることだ。

「時に烏天狗。人間とは恐ろしい思わんか?」
「……化け狸の貴女から、そんな言葉が出てくるとは思わなかったわ」

 博麗の巫女やどこぞの魔法使い、悪魔に仕えるメイドならいざ知らず、人間全般が恐ろしいと思う妖怪が何処に居るだろうか。特に射命丸ほどの妖怪ならなおさらだ。
 だがその返しを受けて、マミゾウは小さく乾いた笑いを漏らす。

「やはり"里に一番近い"だけで、"里の中"に潜ってみんと分からんか。妖怪というのは思いの外単純にできておる。私利私欲のために動き、必要とあれば力を振るう。しかも力を使うことにためらいが無い。じゃが人間は違う。力がない分、頭を使う。決してバレないように隠蔽しよう策を練る。その結果、不可能と思わせるような状況を作り出す」
「それが……人間の恐ろしさ?」
「お主も人間の目線で物事を考えられるようになれば分かるかのう。事柄を複雑にしたがるのは、人間だけじゃ」

 マミゾウはそれだけ言い残すと、踵を返しひらひらと手を振って出入り口の暖簾をくぐっていく。人間の視線で物事を考える……元々人間と妖怪の常識は大きく異なる。やはりまずは人間の世界に慣れることから始めなければならないのか。
 それに里に一番近いだけ――と言われたのが少々癇に障る。マミゾウの方が人間の里へ頻繁に出入りし、慣れて親しんでいるのは当然だ。里の新聞を本格的に作ることになったのだから、これを機に人間というものを今一度深く知っておかなければいけないだろう。
 少し肌寒い空気が店内に入ってきたのを感じ、射命丸は自分の腕を摩った。静かになった店内を見ていても仕方ない。射命丸は踵を返して店の奥に戻る。
 慣れるといっても一朝一夕には無理だろう。人の目線に立つには、まず人と深く関わっていかなければ。とりあえずは奥にいる二人と話すところから始めてみようか。


      2


 奥の部屋に残された阿求と小鈴を沈黙が包む。
 いつもは紅茶を片手に最近読んだ本について話あったりもするのだが、今は切れた紅茶の代わりだされた緑茶から湯気が静かに昇っていくだけ。小鈴はその空気に耐えながら表で話している二人の会話を拾うことに努めていた。
 対する阿求は緑茶を一口飲んで思考を深めていた。該当する妖怪がいるかどうか、手当たりしだい頭の中にある幻想郷縁起に検索をかける。だがどの答えも隠蔽するようなやり方をするよりは強引に奪ってしまった方が手っ取り早い。元々バレることを恐れていない妖怪は隠蔽工作などする必要が無いのだ。
 だからといって妖怪の線が消えたわけじゃないが――と、自分の思考が歩き出した場所に戻っていることに一つため息をつく。どう考えても今ある情報だけじゃ答えを導き出すことはできない。――やっぱり、動いて情報を探すしかないかも。私が自由に動ける範囲は限られているけど。
 もう一口飲もうと湯飲みに手を伸ばすと、気まずい顔をする小鈴と目が合う。

「どうしたの? そんな顔して」
「アンタが難しい顔してたから、黙ってたの」

 やっと静寂の糸が切れ、大きく息を吐いて机にうつ伏せる小鈴を見て、阿求は小さく笑いながら湯飲みを手に取った。いつもの調子が戻ってきた……とまでは言えないが、昨日より随分と表情がらしくなっている。完全に立ち直ってもらうためにも早く本の行方を導き出さなくては。

「そういえば、どうして文さんと一緒にいたの?」

 本の行方の検討していると、小鈴が阿求に話しかける。

「なんでって……取材したいって言われたから」
「それにしては楽しそうに散歩しているように見えたけど」

 小鈴は少し不満そうに眉を寄せた。

「妖狐騒ぎの時には私に"妖怪は人間の敵。それが幻想郷のルールだ"って言っておいて」

 小鈴としては面白くないのだろう。小鈴は妖怪とかなり関わってしまっているせいか、妖怪そのものに興味が湧いている。だが阿求に言われその好奇心をこらえているというのに、当の阿求が妖怪と親しげなのが納得いかないのだろう。
 だが阿求も立場的にも、小鈴の友人としてもそう言わなければいけなかった。小鈴が出会った妖狐の子どもは、それこそ運良く人間に無害で危険度が低い妖怪だった。しかしこれが異変を起こすような、人間と友好的でないような妖怪だったら――そう思うと肝が冷える。それに妖怪に対する注意を促すのは阿求の勤めだ。妖怪すべてが友好的などと思われてはたまらない。

「それは射命丸さんたち烏天狗は、妖怪の山のテリトリーに入らなければ友好的な妖怪だって知っていたからで……」
「ふうん、どうだか。物書きの友達ができそうで嬉しかったんじゃない?」
「そんなこと……まだ友人なんて言える間柄じゃないもの」

 ならどうしてあんな約束をしたのか――手にした湯飲みに残る緑茶を飲み干して、阿求はまた一つ考え込む。射命丸文という烏天狗の新聞記者がいることは前々から知っていた。彼女が出す新聞はよく読んでいたし、異変が起こった際にはいち早く情報を発信するので、ちゃんと裏取りした上で幻想郷縁起の編集にも役立てている。
 どんなヒトなのだろう、とは思っていた。そして昨日、彼女は私の前に現れた。博麗の巫女や森の魔法使いから伝え聞く印象とは随分と違う、真面目で誠実そうなヒト。私が取材対象だからそういう風に接しているのかもしれないけど、ちょっと頼りなさそうな真面目な記者さん。少なくとも私の目にはそう映った。それに事実、小鈴の言うように、その手の話ができる友人が居てくれたら嬉しいとは思う。
 湯飲みをテーブルに戻すと、手持ち無沙汰になった阿求の右手が毛先を巻き始める。向かい合う小鈴はその様子を見てまた大きくため息をつくと、空いた二人分の湯飲みを持ってすぐそこの流しに下げた。

「まあ、私は阿求が妖怪と一緒にいようが構わないけどさ。それに本を読むことが好きなら人妖問わずうちは歓迎。それが私のルールだから」

 そう言い切り湯飲みを洗い始める小鈴に、阿求は一人静かに肩を竦める。
 始めて会った頃は、本が好きな普通の少女だったはずなのに。ここ最近の色々な出来事に巻き込まれた甲斐あってか随分と勇ましくなったものだ。

「でも本を盗ったやつは許さないからね。絶対に捕まえて本を返してもらわなきゃ」
「なら店に来た男について調べるのが無難だと思う。今はそれしかないわ」
「あの男ね……店に来たのはあの時が最初で最後だから、あんまり顔も覚えてないしな……写真でも撮っておけばよかった」

 となれば本当に手がかりなしなのか、阿求は首を捻る。現状できることと言えば、人間の里を回り盗まれた本について聞き込むか、金銭目的で盗んだと踏んで質屋か古本屋などを調べるくらいか。――そうなれば心辺りは二つくらい。
 できることの少なさとそれが自分には十分にできそうにないことに頭を抱えていると、店の方に出ていた射命丸が奥へと戻ってくる。だがその表情は店へ出て行ったときより悩みの色が濃くなっていた。

「お客さんじゃなかったんですか?」
「あれは客じゃありませんよ」

 何か嫌なことでも言われたのか、少し納得がいかない様子の射命丸に阿求が駆け寄る。

「射命丸さん、今から時間ある?」
「大丈夫ですよ。新聞もほとんどできあがって、後は校正するだけですから」
「新聞、書けたのね。それならよかった」

 自分たちのせいで取材が中断になって、新聞ができあがっているのか心配だったが――阿求は胸を撫で下ろすと、小さく微笑んで射命丸に言った。

「手伝ってほしいことがあるの」

 仕事で忙しい彼女に頼むのは少し心苦しいが、今はとにかく人手が必要だ。それに自分に協力的な人間はそう多くない。自分の交友関係の狭さが、こういう場面で仇になるとは。
 小鈴に、店に居ても気をつけるように言いつけ、阿求と射命丸は鈴奈庵を後にする。陽射しが出てきた人間の里は、少しずつ人の行き交いが増え始めていた。軽装で来てよかった、と阿求は軽い足取りで歩き始める。

「私は何をお手伝いすれば?」
「魔法の森の近くに香霖堂というお店があるのは知っているでしょう。あそこは買い取りもやってるし、人里からはそれなりの距離があるから足もつきづらい。もし犯人が売買目的で盗んだとしたら、まず持って行くのはそういうところだと思うの。私は人間の里から簡単に出られないから、そっちをお願い」
「分かりました。香霖堂へ行って、小鈴さんの本を買い取ったかどうか聞いてくればいいんですね。……そっち、ということは阿求さんはどちらに?」
「私は人間の里の中を当たってみる。一応質屋や鈴奈庵以外の古本屋もあるから。ついでに聞き込みもしないと」
「あっ、稗田様!」

 二人の会話に割って入った見知らぬ声。二人が声の方へ振り向いてみると、三十代半ばくらいの女性がこちらに駆け寄ってくる。阿求は内心、不味いと思いながらも笑顔に務めた。女性の手に持つ物から要件も予想がつく。

「あら、今日は随分と可愛らしい服装で。稗田様も年頃の女の子ですものね。よく似合っていますよ」
「ありがとうございます。貰い物なんですけどね。今日はどのような要件で?」

 阿求が尋ねると女性は思い出したように切り出す。

「そうでした。実は今朝とれた新鮮な卵を店頭に並べようとしたら、うちの旦那が古い卵とごっちゃにしてしまって……割れば分かると思いますが、売り物なので。どうにかなりませんか?」

 やっぱりそうか――阿求は女性が腕に抱えるバスケットから卵を手に取ると一つ一つ触っていく。すべて触り終えると、数十個の卵を二つに分けた。

「こちらが古い卵、こちらが新しい卵です。新鮮な卵の表面には古い物には無いざらざらとした感触があります」
「そうなんですか! ありがとうございます」

 女性が笑顔で去って行くと、阿求は気づかれないようにため息をついて射命丸の方へ向き直った。

「さすが阿求さんですね、本以外のこともなんでもござれ」
「そんなことないって……頼ってくれるのは嬉しいし、誰かの役に立つならいいんだけど……まあ、こんな感じだから。そっちはお願い」
「はい、任されました」

 阿求に手を振り、射命丸が路地裏に姿を消すと、小さく羽ばたく音が聞こえた。
 彼女の速さのことだ、すぐに結果は返ってくるだろう。それより私はまた捕まる前に目的の場所を調べないと――。

「おお、稗田様! こんなところに」

 阿求が急ごうと歩き出すが、十字路に差しか掛かったところで今度は中年男性に捕まってしまう。仕方ない、店を当たるのは最後にしてまずは聞き込みから始めるとしよう。
 人間の里は広くない。何かあればすぐに噂として広がっていく。それで面倒な事件が起こった事もあったが。

「こんなこと聞くのはお手数なのですが、実は高級品と聞いて買った醤油の味がどうも安っぽくて……」

 阿求は男性から醤油の入った瓶を受け取ると、瓶を軽く振った。そして中で泡を出しながら揺れる醤油をじっと見つめる。数秒の無言の後、ピタリと制したのを確認して、阿求は首を傾げた。

「これは高級品ではありませんね。振った後、大きな泡が立ってすぐに弾けています。本当に高級品なら、無数の泡が立ってしかもなかなか消えませんから」
「ああなんと、ありがとうございます……あの野郎、とっちめてやる」
「……どうかお手柔らかに。私からも一つ、伺っても?」

 男性に瓶を返すと、阿求は尋ねた。

「はい、こんな私に答えられることなら」
「ここ数日で本、盗難に関係した話を聞きませんでしたか?」
「うーん……いいえ、聞きませんね。最近の里は平和そのものですよ。蛇だ、食い逃げだ、世界の滅亡だと騒いでいたころが懐かしい。耳に入るにしても訪問販売がうるさいやら、野菜の値が上がったとかで、大した話じゃありません」

 まあ、そう簡単に情報は転がっていないと思っていたけど――阿求は男性にお礼を口にし、足早にその場を去った。まだ温度の上がりきらない里は、まだいつもの賑わいを見せていない。この時間帯にどれだけ動けるかで集められる情報も大きく変わってくるだろう。

「たまに走ってみようかな。健康のためにも」

 適度な運動というものはよくわからない。が、時間が惜しいのも事実。里に噂が流れていないとなると、聞き込みに希望は薄い。ゆっくり歩いていてもまた誰かに捕まるだけだ。小さく屈伸をして、阿求は走り出した。
 古本屋か質屋、どちらから向かおうか。古本屋の方が専門に取り扱っているだろうし、買い取りの目利きも確かだろう。それに質屋の方は友人がやっているから遅くに訪ねても、大目に見てくれるだろうし。


      3


 夕暮れ時の人間の里は、朝と同じくらいに人気が薄い。夕陽に染まる道を歩くのは、専ら寺子屋帰りの子どもたちか、夕餉の調達を終えた主婦たちか。
 記憶にある古本屋をすべて回り終えた阿求は、額から頬に伝ってくる汗を指で拭いながら、最後に行くと決めていた質屋へ向かっていた。十字路で商店街を背にして右に曲がり、鈴奈庵の前を通り過ぎて細い路地に入る。すると『オカルト鑑定士L』と書かれた小さな看板がやっと見えてきた。
 相変わらず人が来なさそうな場所にあるな――それでも人の行き来が少ないことに今は感謝しつつ、阿求は木製の扉を引く。店内に足を踏み入れると同時に、軽いベルの音が広がった。店内に入れば、白と黒でまとめられたシンプルモダンなインテリアが並び、一目見て店主のセンスの良さを感じさせる。相談用のソファーとテーブル、ガラス張りのカウンターには何も置かれていないかわりに、一匹の黒猫が眠そうにうずくまっていた。
 ベルの音が鳴り止んで数秒、沈黙に包まれる店内に店主の姿は見えない。

「……いないの?」

 しびれを切らして阿求がカウンターの向こうへ声をかけると、奥にあるソファーで寝ていた店主が目を覚ました。店主は顔の上に載っていた本を退かしてソファーの端に放ると、寝癖を手ぐしで適当に整えて店の方へ顔を出した。
 店主たる女性を見ては、阿求はため息をつく。オカルト鑑定士を名乗る店なのだから、そこで働く店員もそれとなく怪しい人物。そういった先入観があるだろうが、彼女の姿は、それらを一瞬で払拭してみせる。
 二十二、三歳くらいだろうか。猫のようにつった大きな瞳はまるで人形のように見える。ブロンドでミディアムヘヤーの毛先は緩くウェーブがかかっており、品のいいお嬢様のように思えるが、それでいて若者らしくパープルカラーのトレンチ風ワンピースを自然と着こなしている。スタイルも驚くほどよく、まるでモデルのようだ。可愛らしさもあるが、やはり形容するなら美人のほうになるだろう。

「ああ、いらっしゃい。昨日は悪かったね……Qちゃん」
「急に居なくなるんだもの。ヨゾラも困ったわよねー」

 阿求はそういいながらカウンターの上で丸くなっている黒猫――ヨゾラの頭を撫でる。気持ちよかったのかヨゾラは短く、ニャー、と鳴いて返した。

「それにしても珍しいね、Qちゃんの方から店に来るなんて」
「少しね……レイテンシー、貴女に聞きたいことがあってきたの」

 そう言うとレイテンシーは「長くなるでしょ?」と相談用のソファーに座るように阿求を促した。阿求がソファーに腰を下ろすと、一度奥に戻っていた彼女が、両手にティーカップを持って、差し向かいに座る。差し出された紅茶を受け取って、阿求はレイテンシーにこれまでの経緯を話した。

「……それで相談に来たの? それなら来る場所を間違ってるよ。ここは警察でもなければ探偵事務所でもない」
「貴女に解決して――なんて言っているわけじゃないわ。ここで盗まれた本を買い取ってないか聞きに来ただけ。持ち込まれたりしなかった?」
「それこそ来る場所を間違ってる。ここはオカルト鑑定士Lの店だよ。オカルト道具にしか私の目は向かない。その鈴奈庵にある妖怪本なら手に入れたいけどね。そうそうこの前いい魔法石が――」

 先日仕入れたという魔法石の説明をし始める彼女を尻目に、阿求は左手で毛先を巻き始めた。一日動いてみて本につながる成果はまるでない。自分が里の中でできることはもうないだろうし、後は里の外を任せている射命丸の結果を待つのみだ。

「――って、Qちゃん聞いてる?」
「……ごめんなさい」
「なんだか落ち込んでいるように見えるけど」
「それはやっぱり……悔しいもの。友人が大切な物を盗まれているのに、役に立てないなんて。私って無駄な知識が多いだけで肝心な時に役に立てな――」
「勘違いしちゃいけないよ」

 レイテンシーは軽い声色で言葉を切る。立ち上がり、俯き始めた阿求の隣に座り直した。

「無駄な知識なんてない。Qちゃんもよく言ってるでしょ? 物事には様々な側面があるって。今見えてる面じゃQちゃんの知識は活かせない。だからアプローチを変えよう」
「アプローチを?」

 顔を上げ、首を傾げる阿求にレイテンシーは微笑みながら続ける。

「そう。警察でも探偵でもない、Qちゃんはミステリー作家なんだから」

 ――物事には必ずストーリーがある。犯人が誰であれ、その人物が犯行に及ぶに至って今回の筋書きを考えたはずだ。ならば起こった出来事から考えられたストーリーを読み解くのは不可能ではないはず。そしてそのストーリーをたどれば、必ず人にたどり着ける。そう考えていたのは他でもない阿求自身だ。少し、焦りすぎていたのかも知れない。

「ありがとうレイテンシー、自分が何をすればいいのか分かってきた気がする」
「ならよかった。――それはそうと」

 阿求がお礼を口にしたのもつかの間、レイテンシーはソファーの裏から大きな紙袋を取り出し、膝の上に乗せる。中から出てきたのは、幻想郷では見慣れない洋服とブーツ。
 だが阿求にはそれが何かすぐに分かった。襟に通る長く垂れたリボンタイが特徴的な白いブラウスに、その上に羽織るであろう茶色のジャケットと丈の短い黒いスカート。ちょうど洋服の資料で読んだ物だった。

「どう? 前にあげたそれもよく似合ってるけど、やっぱりQちゃんの落ち着いてて知的な雰囲気にはこっちの方が合うと思う」
「……長袖でしょ? 夏場は暑くて着られないじゃない」
「これ通気性いいやつだから着物よりは涼しいよ」
「……そうやって私を着せ替え人形のようにして。そのスカート、丈が短すぎない?」
「大丈夫、ちゃんとニーハイも用意してるから。私とQちゃん、そこまで身長差ないし、スタイルだっていいんだから絶対似合う」

 半ば強引に紙袋を阿求に押しつけると、レイテンシーはふらっと立ち上がり、カウンターの奥へと歩き出す。相棒が呼んでるから、ヨゾラのことよろしく――それだけ言い残し、その姿は消えてしまった。阿求はせめてティーカップを片付けようと二人分のカップを持ってカウンターの奥を覗いたが、そこには誰の姿も無かった。本当に神出鬼没。まるで妖怪の賢者のようだ。カップはとりあえず流しに置いておいた。
 さて、この洋服はどうしようか。彼女も好意でくれているのだから受け取った方がいいのだろうけど、なんといっても着る機会がない。大体室内に居るのだから着込まなくたって。――まあ、着物しか着たことが無かった私への彼女なりの気遣い。
 そう受け取っておくとしよう。
 洋服とブーツが入った紙袋を肩にかけ、いまだにカウンターで丸くなっているヨゾラの背中を撫でる。

「ヨゾラ、今日は家に遊びにおいで」

 猫に人の言葉が分かるのかどうかは分からないがヨゾラは、ニャー、と返すとカウンターから飛び降りて阿求の足下へ擦り寄った。
 自宅へ帰る前に一応鈴奈庵に顔を出していこうか。余り進展が無かったから気持ち顔を出しづらいのだが、小鈴の方で何か分かったことがあったかもれない。それに頼み事をしている彼女も、そろそろ成果を持ってくる頃だろう。


      4


 一時的に帰宅した射命丸は、気疲れを吐き出すようにため息をつく。
 阿求の頼みで香霖堂まで足を運んだまではよかったのだが、売買をまとめた書類を見せてもらうのに色々条件を出され、些細な質問から説明攻めにあった。適当に相槌を打つのも思いの外疲れるものだ。
 自室は窓の向こうから差し込む西日に熱せられ、少し居心地が悪い。窓を開けて行けばよかったか。玄関から部屋へと入ろうとする射命丸の目に、窓の方へ歩いて行き窓を開ける人影が見えた。見知った顔だった。
 開けた窓から吹き込んでくる風で涼む彼女は振り向きざまに言う。

「ん、お帰り」
「はたて……来てたんだ」

 大して驚くことはない。姫海棠には合鍵も渡してある。何を思ってかふらっとこうして遊びにくるのだ。だからといって特別なことがあるわけでもなく、射命丸の新聞のバックナンバーを読んでいるくらいで。まったく、彼女の思考は読みづらい。
 射命丸は肩に提げていた鞄を机の上に置いて姫海棠の居る窓際に歩き出す。僅かに汗ばんでいた額に、暮れゆく幻想郷の風が気持ちいい。このままずっと黄昏ていたいのだが、届け物があるからそうはいかない。それでも少しばかり休憩してもいいだろう。ついでに姫海棠に渡そうと思っていた物もあることだ。
 窓の向こうの景色を眺めて数秒。姫海棠が射命丸の顔をのぞき込む。

「あれから一週間と少し経つけど……どう?」
「はたてのヒントのおかげでね。下書きはできた。後は校正して印刷所に出すだけ」
「よかったー。それじゃ私が校正したげる」

 手を差し出して下書きの原稿を求める姫海棠に射命丸は「ちょっと待ってて」と机に置いた鞄を取りに戻る。鞄の中にある下書き原稿と阿求に頼んで書いてもらったサイン色紙を取り出して、姫海棠に渡す。受け取った姫海棠はサイン色紙に気づき、その瞳を輝かせた。

「おっ! ちゃんと会えたんだ。サインありがとー」
「約束だからね。校正よろしく」
「はいはーい、任された」

 色紙を片手に姫海棠が窓辺を離れると、座布団に座り込み下書き原稿を読み始めた。
 だが射命丸は窓辺に戻って徐々に弱まる陽射しに目を細める。
 ――本当は阿求さんに見てもらおうと思ったのにな。でも小鈴ちゃんがあれじゃ仕方ない。盗難事件が解決した後にお茶する約束はしているが……あと四日以内に解決するのだろうか。
 それにしても、どうして自分はこんなに阿求に興味を持っているのだろう。人間に興味を持つのはこれで二度目になる。一人目は何を隠そう現博麗の巫女である博麗霊夢。あれはこれまでの博麗の巫女とはまるで違う。性格も、考え方も。これまでの博麗の巫女を見てきた射命丸の目には彼女の存在が異質に見えたが、それはそれで新聞映えする。今では武勇伝もかなりのものだ。
 でもそれとはまたベクトルが違う興味を阿求には抱いている。人間の里の象徴、稗田家当主と関わっている稀な事態に記者として興奮しているのは確かなのだが、もっと個人的な事が知りたくなってしまう。――本人の希望で記事にはできないのだが。
 それに誰かの隣が居心地よかったのは久しぶりだった。顔に出やすいタイプの阿求と話していると、表情がころころ変わって退屈しない。彼女の話はすんなり耳に入ってくるし
、こちらの話はちゃんと聞いて相槌を打ってくれる。そう……端的にいえば、阿求と一緒に居た時間が楽しかったのだ。

「ねー。聞いてる?」
「えっ……ああ、ごめん」

 どうやら校正が終わったらしい。窓に背を向け姫海棠の方を見る。

「どうだった?」
「内容はいいけど……らしくない誤字脱字ばっか。ちゃん自分でも校正した?」

 うっ……最近新聞を書かない生活をしていたせいか、その辺が鈍ったかも知れない。
 少し考えるような仕草をして姫海棠が続ける。

「あとさ、トップのアガサクリスQについての記事だけど……どうして写真がないの?」
「ああ、それは本人に素性は明かさないって言ったから」
「でもさー。表紙に写真が一枚ないっていうのは寂しくない? 文の写真結構好きだし。それにこれだと――信憑性にかけるしね」

 姫海棠の言っている意味が分からなかった射命丸は首を傾げる。意味を理解していない様子の射命丸を見て、姫海棠は小さくため息をついた。

「だってこれだと私の新聞と大差ないよ」

 ああ、そういうことか――納得すると同時に心に焦りが生じる。射命丸は忘れていたのだ。"アガサクリスQは正体不明の作家"であるということを。この新聞には、本当にアガサクリスQ本人からの情報なのか確信できる証拠がない――姫海棠はそう言いたかったのだ。
 だが、かといって本人である阿求の写真を載せるなんて射命丸にはできない。正体を明かさないと言ったときに見せた彼女の安堵の表情を裏切ることはできなかった。――本人の写真以外でなんとかならないだろうか。
 陽射しが少し傾いた。そろそろ届けに行かなくては日が暮れる。机に置いた鞄を再び肩にかけ、背中で姫海棠に言う。

「別に居てもいいけど、私は届け物があるからちょっと行ってくる」
「んーいってらっしゃい」

 とりあえず頼まれ物を渡した後に考えよう。せっかく阿求に聞いた話だ。読んでいる側にも信じて欲しい。

「あっ、そういえば写真だけど――って行っちゃったか」

 呼び止めようとした姫海棠だったが、足早に出て行った射命丸には届かない。
 ――写真、できあがってたから取っておいたのに。
 姫海棠の手に握られていたのは、風に靡く髪をそのままに涼しげな顔で本を読む少女の写真だった。


      5


 射命丸が人間の里に着く頃には辺りは暗くなり始め、夕陽もほとんど沈んでいた。辺りに人が居ないことを確認してから鈴奈庵の前に降り立ち、暖簾を潜る。店内は電気が付き、ぼんやりと明るい。普段座っているはずのカウンターに小鈴の姿はなく、裏に続く暖簾の向こうから何やら声が聞こえてくる。
 暖簾の向こうへ顔を出すと、椅子に座る小鈴の膝の上で丸くなる黒猫がこちらを向いて、ニャー、と鳴いた。小鈴はその頭を黙って撫でている。

「こんばんは小鈴さん、猫飼っていましたっけ?」
「私の猫じゃありません。この子、ヨゾラっていうんです。結構前から阿求の家に出入りして、つい先日阿求の友人が引き取ったんですけど……度々阿求に預けているそうです」

 射命丸が近づいて手を伸ばすと、ヨゾラはその手に擦り寄ってくる。――ヒト懐っこい子。親指の腹でヨゾラの額を撫でると、射命丸は室内に居るであろう阿求を探す。頼まれ事を完遂しなければならないし、写真の件の相談もできればしたい。
 しかし目の届く範囲に阿求の姿は見えない。

「阿求さんはここには来ていないんですか? お渡ししなきゃいけないものが」
「それなら上に居ますよ。急に書き物始めちゃって」

 本業……とは少し違うけど、それが本来の阿求さんのすることでは?
 首を捻りながらも射命丸は小鈴の案内に従い、部屋の奥にある階段を上っていく。今居た部屋のちょうど真上に位置する部屋に阿求の姿はあった。室内の中央にある椅子に腰掛ける服装はいつもの着物姿に戻っているのだが、何やら見慣れないファーの付いた赤い外套を羽織っている。机には向かっているものの、上腕を覆う白い手袋越しに持つペンは一向に動かない。
 けれどその目は鋭く、小さく何かを呟いては指が宙を回っている。

「驚きますよね。阿求が小説を書く時っていつもこうなんです。頭の中で試行錯誤して、形になってから清書するそうですよ」
「頭の中でって……ああ、阿求さんは忘れませんもんね」

 柱の陰で様子を窺う小鈴と射命丸。二人とも阿求に声をかけたかったが、とても話しかけられる雰囲気ではない。事実、階段を上がっている音で気づきそうなものだ。しかしよほど集中しているのか、こちらに見向きもしない。
 しばらくその場で立ち尽くす二人だったが、ふと射命丸の耳に階段の軋む音が聞こえる。誰か上がってきたのか、と振り返ってみるが階段には誰の姿もない。聞き違いじゃないと思うけど――首を傾げる射命丸の耳に今度は阿求の悲鳴が聞こえる。

「きゃっ! なんだヨゾラか……上がってきたのね」

 どうやら音の主はヨゾラらしく、いつの間にか阿求の膝の上に飛び乗って丸くなっていた。阿求も飛び乗ってくるまで気づかなかったようで、大きく息を吐き出した後、手袋を外して背中をなぞるように撫でた。

「小鈴に遊んでもらってたんじゃなかったの?」

 阿求が尋ねるとヨゾラは膝の上から飛び降り、階段の方で立ち尽くす小鈴と射命丸の方へと駆けていく。ヨゾラの動きを追う視線が階段の方へと向き、ようやく二人が二階に上がってきたことを知った。
 ――途端、頬を赤らめた阿求は急ぎ羽織り物を取り、二人の元へ駆ける。
 射命丸自身、それほど気にすることでもないと思っていた。種別は違えど何かを書く職業に属している身。きっと小説を書くときのルーティンのような物なのだろう。射命丸も始めと中盤に手を洗うことを習慣としている。

「あ、あはは……その、来てたの……」

 頬の赤みが引き切らない阿求は、やや引きつった笑みを浮かべる。その様子を心底意外そうに見る小鈴が、足下に擦り寄ってきたヨゾラを抱き上げて言った。

「何よ今更。私の前ではよくあの格好じゃない」
「小鈴はどうでもいいの! まさか射命丸さんに見られるなんて……ああ」
「えっ、ちょっと"どうでもいい"はあんまりじゃない? いつもだったらあの格好してノリノリで書いてるくせに。それにその格好は"アガサクリスQ"になるために着てるんでしょ? だってアガサクリスQの"Q"って――」
「そういう恥ずかしいことを赤裸々に話すのはやめて!」

 ペンネームの由来を喋ろうとする小鈴の口を、限界まで顔を赤くした阿求の両手が塞ぐ。記者としては是非とも聞きたかったが、この後に聞く勇気を射命丸は持ち合わせていなかった。

「はぁ、はぁ……もう小鈴ったら。ごめんなさい、慌ただしくて。明日までにどうしても書き上げたい小説があったの」
「そうだったんですか。それはまた随分と急な話で」
「夕方から思いついたことだから。話を作って、書くまで一直線。これは徹夜ね」
「初耳なんだけど……それ製本するの私なんだから私も揃って徹夜かー。はぁ……今のうちに寝ておこう」

 下書き終わったら起こして――小鈴はそれだけ言うと、部屋の隅にある古いソファーに横になった。ヨゾラは小鈴のお腹の上で丸くなり、一緒に寝始める。

「それで頼んでいた物なんだけど」
「ああ、忘れるところでした。これです。ここ一ヶ月の売買をまとめた資料をお借りしてきました」

 射命丸は鞄の中から香霖堂の店主、森近霖之助から店の宣伝記事を挟むことを条件に借りてきた資料を阿求へと手渡す。だがその資料の中には小鈴の本が売買された記録はない。主にインテリアや小物などが記載されているだけだ。

「うーん、小鈴の本はない……か」
「すみません。遅くなってしまったのにこんな結果で」
「射命丸さんが謝ることじゃないわ。霖之助さんから説明攻めにあったりしなかった?」
「それはもう……事細かく説明されました」
「霖之助さん昔からそうらしいの。本人も悪気はないんだけど、どうしても止まらなくなっちゃうみたいで――」

 話ながら資料に目を通していた阿求の瞳が一つの項目で止まった。何かを想起するように瞼を閉じると、小さく思考を漏らしながら歩き始める。何か引っかかることでもあったのか。
 やはり彼女は私と違う物が見えているのかもしれない。そうだとしたら一体何が――。
 阿求が部屋の中を回るようにして歩く姿を見守ること一分ほど。阿求の足がぴたりと止まり、閉じていた瞼が開いた。

「ありがとう射命丸さん。おかげで物語が書き上げられそう」
「えっ……小説の方ですか?」

 てっきり本の盗難事件の方で何か思いついたと思っていた射命丸が目を白黒させると、阿求は射命丸に向き直って微笑んだ。

「ええ、急いで書かなくちゃ。真実と誰かをつなぐためのストーリーを」

 元から目力が強い人だとは思っていた。だが今は取材で会った日の比ではないほど強力に思える。あのときが可愛らしい猫だとしたら、今は獲物を狙う豹のようだ。
 私には彼女が何を見て、どう考え、どこにたどり着いたのか分からない。でも彼女の澄んだ瞳には、誰も知らないたった一つの真実が見えているんだろうか。


      6


 暮れゆく人間の里は決して静かではなかった。
 人気もなく、喧騒もない。けれど風は強かった。周りから聞こえてくるであろう虫の音も、自分の足音ですら風がさらっていく。昼間の暑さで流れた汗に、吹き付ける風が気持ちいい。大型のキャリーカートを引いているなら尚更だ。
 陽射しに向かって歩き続けること十分ほどたった。広くはないといえど人間の里を移動するのには時間が掛かった。余り無理できない体であることは分かっているが、こればかりはしょうが無い。ようやくたどり着いた目的地、鈴奈庵を前にして初老の男性――黒川は引いてきたキャリーカートを店の前に置いた。
 今日は貸し出しの最終日。速く回収して帰らねば。暗くなっては堪らない。
 店に入ろうと暖簾を潜ると、そこには見慣れた店内。だが二つの違和感を覚えた。一つは店内が静まりかえっていることだ。いつもなら寺子屋帰りの子どもたちに店主の娘が本を読み聞かせていたり、それでなくともいくらか客はいるはずだ。
 そして二つ目の違和感は大きなものだった。出入り口から見てカウンターの左手、普段は何も置かれておらず、店主の娘が小さい子たちに読み聞かせしたりするときに使うスペース。今日に限ってか、そこには小型のテーブルと椅子が一脚。立ち並ぶ本棚に隠れたテーブルの向こうには、向かい合うように椅子がもう一脚置かれているのだろう。
 ともあれ、本棚の回収をするにしても店主の娘に挨拶をしなくては。カウンターに向かいながら店内を見て回る。店主の娘の姿はない。いつもならカウンターに座っているのだが、奥に居るのだろうか。
 奥へと続く暖簾に声をかけようとカウンターの前に来たとき、黒川の視線の端に誰かの姿を捕らえた。既視感は覚えなかった。だがその存在感を無視できず、黒川はそちらへ視線を向ける。よく見れば見知った顔だった。気づけなかったのは、いつもと雰囲気が異なったからだ。
 僅かに肩に触れる紫がかった髪。茶色のジャケットの下には長いボンタイの垂れた白いブラウスを着ている。膝上ほどの黒のスカートに、出た足を隠すようなニーハイ。普段見ていた着物姿とは違い、元々知的だった彼女をより知的に見せた。
 彼女――稗田阿求が黒川を視界に捕らえると、穏やかな表情で小さく頭を下げた。黒川も釣られて頭を下げる。顔を上げると、阿求の大きな瞳と視線が混じった。大きな瞳ゆえに、自然と引き寄せられてしまう。そして彼女の瞳が持つ力が、視線を外させない。

「黒川さん……ですよね。今日、本棚を取りに来る予定だった」
「ええ、店主さんはいらっしゃいますか? 姿が見えないのですが」
「先ほど出かけてしまいました。どうも急用だとかで。私も彼女とのお茶を楽しもうと思っていたのに……あの子ったら紅茶を一口飲む暇も無かったみたいで」

 テーブルの両脇に置かれた湯気の立つティーカップを見て少し呆れたように微笑む阿求に、黒川は小さく笑う。これは参った。だが来る時間を告げなかった自分にも非がある。さて出直すか、それとも待つか――。

「これからお時間ありますか? 実は今日は彼女と近々売り出される小説の批評会をしようと思っていたんですよ。私も暇を持て余していたところで……一緒にどうですか? 紅茶でも飲みながら」

 言われてみればテーブルの上には一冊、本が上がっていた。裏表紙なのだろうか、見える面には何も書かれていない。

「こんな老いぼれでよろしければ……喜んで」

 外に出て入れ違いになっては相手側に迷惑だろう。黒川は席に着き、一口紅茶を啜った。まだ暖かい――紅茶を嗜むような趣味はなく、紅茶に関して全くの無知である黒川にも美味しい事だけはわかった。

「それにしても稗田様の前で小説の批評をするなんて、なんとも恐れ多い」
「本を読むのに私たちの身分なんて関係ありませんよ。読み手が感じたことがすべて。読者の数だけ読み取り方があったほうが、面白いと思います」
「そう言っていただけると、随分と楽になれますね。それでは」

 黒川はテーブルの上に置かれた本を手に取る。
 タイトルには『犯罪の研究』――そう書かれていた。




     『犯罪の研究』


 この世の中には二種類の犯罪が存在する。と誰かが言った。
 一つは何かしらの目的を果たす過程で発生する犯罪。全体の七、八割がこれに該当する。言うなれば、罪を犯すのは目的のために動いた際に生じる副産物であるということだ。
 そしてもう一つは、罪を犯すことに意味がある犯罪。常人では理解し難いが、そういう思想を持って行動を起こす者も一定数いる。規則に縛られまいとする気持ちがそうさせるのか、それとも罪を犯すことに何か特別な感情を抱いているのか。それは当人にしか分かり得ない。
 そして"彼"もまた、そんな他人からは理解され難い思想の持ち主だった。幻想郷の一角に存在する人間の里。人の安息が約束されたその片隅に"彼"は住んでいた。
 そこで"彼"が熱心に研究していたモノ。それこそ『犯罪』であった。
 だが、ただ罪を犯せばいいというものではない。それは人外の力が溢れる幻想郷であっても色褪せない謎に包まれていなければ意味がなかった。人間の手で妖怪と同等な不思議を生み出すことに"彼"は情熱を注いでいた。
 長い年月をかけて試作し、不思議で難解な謎を作り上げてきた。しかしそれが人の目に触れることはない。それをネタにミステリー小説でも書けばいい――などと思う人がいるかもしれないが、文章を書くというのは"彼"の性には合わなかった。読むのは好きだったが、書くことはできなかった。故に自分が作り上げたモノを発表する場など、何処にもない。
 "彼"は顔も知らぬ誰かが書いたミステリー小説を読み、自分ならばどのようなトリックを組み立てるかを考えることに時間を費やした。
 時が経つにつれ、"彼"の胸の内で膨れ上がる「作り上げたモノを形にしたい」という欲望を抑えることができなくなった。そしてついに"彼"は行動に移すのである。自分の集大成である『犯罪の研究』を携えて。
 目をつけたのは、小さな貸本屋の店主が持つ一冊の愛読書だった。



 黒川は一度小説を読む手を止め、大きく息を吐き出した。

「――なかなか好みの書き出しだ。おそらくこの"彼"は罪を犯そうと動くわけですね?」
「ええ、そのようです」
「だとしたらもっと酷い有様を出してもいいのではないでしょうか? 例えば……そう、"彼"には家族もおらず天涯孤独の身だった。『犯罪』を研究するような変人の元へ人が集まる訳もなく、隣人との付き合いは……言わずもがなだろう。――とか」
「なるほど、それなら犯罪の研究にも実行にも躊躇しませんね。そんな人間関係の破綻した"彼"が犯行に選んだのが、唯一出入りしていた貸本屋だった……」
「――続きを読んでも?」
「もちろん」

 微笑み返す阿求に、黒川は紅茶で口を潤して読書に戻る。――紅茶の味はよく分からなかった。


 人間の里にある小さな古本屋。そこは年若い娘が一人で経営しているため、警備の目は厳しくない。だがそんな手薄な場所での犯行に、自分が積み上げてきた『犯罪の研究』を使うのは余りに惜しい。そう考えた"彼"は、その貸本屋の中でもっと価値があり、もっと盗みづらい物を盗み出そうと思い立った。――無論、誰にも気づかれることなく。どのようにして盗んだかも理解させずに。
 "彼"もよく出入りする貸本屋のもっとも価値のある物、それは店主の娘が客と客との合間に読んでいる愛読書だった。希少価値が高く、常に店主の娘の手から離れないあの本を盗み出す。"彼"はさっそく自分の胸の内にため込んだ研究の成果を取り出し、日夜試行錯誤に明け暮れた。
 本を盗み出すこと自体は大したことではない。問題はその過程を知られないようにすることだった。店の出入り口と店主の娘がいるカウンターは一直線上にあるため、店内に入ってくる者は、必ず娘の目に入る。また逃げ道も一つしかないため、手に持って逃げるのは厳しいだろう。人里は狭い。すぐに人の目に付き、足跡を辿られる。
 ならば人の目に触れられずに店内から持ち出す方法はないだろうか。鞄の中に入れてしまえば、それは解決できる。しかしそれでは根本的な解決にならない。本が盗まれた事は必ずバレる。そうすれば鞄などを持っていた人物が疑われるのは、自明の理であった。
 人の目に触れられず、自分は何も持たずに店を出なければ、この計画は成立しない。



「"彼"はどうすると思います?」

 ちょうど一ページ読み終えたところで今度は阿求の方から話しかけた。
 彼女は一度この本を読んでいるのであろう。そしてこのタイミングで声をかけてくるということは、次のページで"彼"は何かしらのアクションを起こす――ということだろう。犯人視点で進むこの小説で、犯人の思考を想像するならこの時をおいて他にない。
 本から顔を上げると、再び阿求と目が合う。澄んだ瞳は真っ直ぐ黒川を見ていて、他にも色々な物が見えているような、そんな気がした。

「"彼"は物を持たずに店を出なければならない。とても人間業で無理がある。これは難しいですね」

 答えを求めてページを捲る。


 ――そして彼が行き着いたのが、一つのインテリアであった。


 黒川が感嘆の声を漏らす。

「インテリアですか……! でもインテリアのような大きな物を店に持ち込むのは難しいのでは? それこそ怪しまれてしまう」
「……インテリアは大きな物だけではありません。手のひらに乗る小さい物だってありますよ。それが堂々と持ち出せる物であれば難しくありません」
「ですが収納があるインテリアを持ち込んだとなれば、その時点で容疑が掛けられます」
「それではこういうのはどうでしょう?」

 矢のように鋭い阿求の視線が黒川を見据える。

「一見して収納機能がないような物に収納機能が付いていて、なおかつ貸本屋の店内にあっても何ら違和感がない外装をしている物」

 一呼吸置いて阿求が言う。

「――ブックボックス」

 阿求が発した小さな一言で、店内は静寂に包まれる。黒川は室温が少し、下がったように感じた。阿求は視線を動かさずに続ける。

「外の世界のインテリアです。本と同様の外見をしているのですが、中は空洞になっていて物を仕舞うことができます。まあ、元が本と同じサイズなので多くの物は入りません。でも本一冊なら」
「なぜ"彼"は外の世界のインテリアを知っていたんでしょうか?」
「"彼"が出入りしていた貸本屋でインテリアのカタログを読んでいたのではないでしょうか。ちょうど、この店にもありますよ。私もこの前読みました――ああ、ごめんなさい。読書の途中に長々と。ネタバレは厳禁だったのに」
「いえいえ、私はこれまでずっと一人で小説を読んできたので、こうして誰かと小説の批評を交わすことが楽しくて……実は少し浮かれています」

 二人の間に小さな笑いが起こる。黒川は視線を本へと戻した。


 そのインテリアとは「ブックボックス」という本の見た目をした箱だった。ブックボックスならば貸本屋にあったとしても違和感はない。潜り込ませるのは容易だろう。しかし回収のことを考えれば、持ち込み方にも一工夫必要だ。
 だが兎にも角にもブックボックスを手に入れなければ始まらない。"彼"はブックボックスを手に入れるため動き出した。元々外の世界のインテリアであるため店頭で売っている可能性は希薄だ。それに人間の里で動くとなれば情報の流失は最小限にしなければならない。狭い里で噂が広がるのはあっという間のことだろう。
 頼みの綱は、人間の里を出てすぐのところに流れている川に沿って歩いた先、魔法の森の手前にあるという道具屋だった。そこでは見慣れない外の世界の道具を主に扱っていると聞く。人間の里から出るという危険を犯すことになるが、"彼"の胸の内に秘める想いはその程度で抑えられるほどのものではない。
 早朝、まだ陽が出たばかり"彼"は人間の里を抜け出した。川に沿って歩いていれば迷うことはない。夜が明けた直前なら妖怪に出くわすこともほとんど無いだろう。
 運も味方し、"彼"は無事に道具屋へとたどり着くことに成功した。手狭な店内に、これでもかと物がひしめき合っている。"彼"は店主に「ブックボックスはないか」と尋ねると、店主は店の奥から数種類のブックボックスを"彼"に差し出した。多少値が張ってもいいものを買おうと、"彼"は状態がよく、外装が異なる物を三つほど購入した。
 人間の里へと帰る足は速かった。妖怪が怖くてではない。早く自分の考えた計画を実行したい――その一心だった。
 人間の里へと戻った"彼"はブックボックスの選別に数日を要し、ついに研究を実行へと移す。最初にして最大の難所は貸本屋の店主の娘に商談を持ちかけるところからだ。ここが頓挫してしまったらすべてが失敗に終わる。しかし"彼"は店主の娘のことはよく知っていた。本を愛している彼女なら、快く引き受けてくれるだろう――そう考えていた。案の定、商談は上手くいき、"彼"の私物である本を詰めた本棚を店内に置くことに成功した。持ち込んだ本の中に、ブックボックスが紛れていることを、店主の娘は知るよしもない。
 ブックボックスの仕込みに成功した後は、ひたすら我慢の時が続いた。本棚を店の中に置いた次の日に事件が起こったら真っ先に疑われてしまう。貸し出し期間は十日間としてある。ならば本棚に違和感が消えるまで待った方が成功率は上がるはずだ。
 "彼"は八日目に次の行動を起こした。これまた早朝、万屋の男を雇い、誰も居ない店内で店主の娘の愛読書をカウンターの上からカウンター脇の本棚――ブックボックスの中に隠すよう頼した。貸本屋の在庫が店の奥にあること、店主の娘が開店直後に読書をしていて、愛読書は概ねカウンターの上に置いてあること。これらは店の常連なら周知の事実であるため、疑いが"彼"に及ぶことはない。さらにいえばこの行為で万屋の男が罪に問われることはない。店から本を持ち出す――『窃盗』を犯すのは、"彼"の役目なのだから。
 そして十日目、ついにその日がやって来たのだった――――



 次のページを捲った黒川の手が止まる。何も書かれていない。白紙だ。
 驚きはしたものの、すぐに納得して本を閉じる。

「なるほど、この作品は未完成……まだ途中までしかないのですね」
「ええ、作家はこの批評会での意見を参考にラストを書きたいそうです」

 そうか、この小説を書いた作家というのは――黒川は一つの確信を得ると、肩の力を抜いて一つため息をついた。そして少し温くなった紅茶を啜って喉を潤す。少し長く喋りそうな気がしたからだ。

「小説の方ですが……少し気になるところが。"彼"はブックボックスを探していました。彼は小説を読み込んでいる訳ですから、材料に困ることはない。自分で作ることもできたはずです。人間の里から離れているとはいえ、購入する段階で何かしらの痕跡が残ってしまう。でも"彼"は買うことを選んだ。出来映えを気にしてのことでしょうか?」
「どうでしょう。完璧に情報を遮断し切れなかった理由はそれだけではないと思います。"彼"は研究のためにミステリー小説を読み込んでいた……その過程で小説に愛着が湧いてしまった。小説そのものを愛してしまった。そんな"彼"には小説を切り刻むことなどできるはずもありません」
「愚かな男ですね。それが命取りになるやもしれないのに」
「確かに犯罪を犯す側としては愚かですが、私は好印象ですよ。どんな者にも、それこそ犯罪を犯す者にも様々な面がある。愛するモノの一つくらい、きっとあるはず」
「……そうですね。では次にトリックについて。このトリックではブックボックスを本棚ごと回収するのに十日掛かります。その間にブックボックスが誰かの手に渡ることもある。そこを運任せにするのは、トリックとしてどうなんでしょうか?」
「運の要素が強いトリックではありますよね。ですがその分、成功したときに相手に与える謎が大きい。それに"彼"はただ運に任せたわけじゃない。確率を高めるために動いていたのでしょう」
「なぜそう言えるのでしょうか?」

 黒川が尋ねると、阿求は席から立ち上がった。ブーツの靴底で音を立てながら向かったのは店の本棚の一角。その中から一冊の本を抜き取ると、テーブルに戻り黒川にも見えるようにあるページを広げた。

「ご覧の通り、ブックボックスはハードカバーの物が主流です。幻想郷ではあまり馴染みのない物ですから興味本位で手に取られてしまうと、その重量感のある見た目と手に取った重さで違和感を与えてしまいます」
「――その欠点を補うには幻想郷の書籍でブックボックスを作るしかない。けれど"彼"にはそれができなかった。つくづく致命的な男ですね」
「だから"彼"は人が手に取らないようなブックボックスを探したのでしょう。例えば幻想郷ではあまり馴染みのないアルファベットがあしらわれたような物なんて、他の言語が解らない私たちは手に取りづらいですよね」
「取りづらい見た目をしていて、三日間取られなければ良い……そう思うと上手くいきそうな気がしてきますね」
「それに購入してから数日間、時間が空いています。その間に訪問販売を装って、売り物の中にブックボックスを忍ばせておいて本当に手に取られないか確かめておけば、その自信はより強固なものになったでしょう」

 その時、不意に二人の間に沈黙が立ちこめた。だが出入り口の暖簾のはためきがそれを払っていく。夏にして随分と冷たい風だった。それが阿求の元まで届き、前髪を僅かに揺らす。穏やかな空気が、店内に流れ始めていた。
 そんな中、黒川が席を立つ。その顔はすべてを出し尽くしたように清々しく、柔らかな物だった。

「どちらへ?」
「行かなければいけないところがあります。今日の批評会、とても有意義な時間でした。店主の小鈴さんに、本はお譲りしますと伝えておいてくれませんか? 帰らない主を待つより本を愛している人の手に渡った方が……本も幸せだ」

 黒川は阿求に踵を返すと、そのまま出口の方へ向かって歩き出す。
 だがその足は途中で止まった。そして振り返らずこう口にした。

「そうだ、その小説を書いた作家にもお伝えください。『犯罪の研究』是非続きを見せて下さい――と。それと物語のラストはこう締めくくってはどうです?
 "彼"が本棚を取りに行くと、待っていたのは聡明で瞳の澄んだ女性だった。女性は"彼"を小説の批評会に誘い、紅茶を一杯ごちそうした。思わぬ出来事だったが、"彼"はその誘いを素直に受ける。人と触れ合ってこなかった"彼"にとって、それは夢のような時間に他ならなかった。だが驚くべき事に彼女に読まされたその本は、"彼"が今までしてきたことのすべてが書かれていた。動揺もあったが、一番にわき上がってきた感情は怒りでも、ましてや憎しみでもない。――純粋な感謝だった。
 本来謎というのは観測者がいなければ謎にならない。トリックを考えても、それを解き明かそうとする誰かがいなければ"彼"が研究した『犯罪』は存在すらできない。彼女は自分が仕掛けたトリックを見つけてくれた。自分が考えたトリックについて考え、意見を交わしてくれた。そう思うと感謝しかなかった。
 "彼"は素直に負けを認め、自ら警察へ出頭する道を選んだ。長年積み重ねてきた研究が敗れ去ったというのに、悔しさは胸の中にはない。"彼"は心の何処かでこの展開を望んでいたのかもしれない。
 なぜなら"彼"が愛してしまったミステリー小説では、犯罪に探偵役が負けることなどないのだから


 黒川の言葉を一言一句逃さず聞き終えた阿求は、自分の席を立ち黒川に歩み寄る。

「"彼"はどんな罪に問われるのでしょうか? 結局"彼"はなんの犯罪も犯していません」
「本を愛する者から本を奪う、それに勝る罪はない――小説を愛してしまった"彼"なら、そう言うのではないでしょうか? ……私にはどんなラストが待っているんでしょう」

 それが彼……黒川の最後の言葉だった。

 静まりかえった店内で阿求は一人、本棚の前に屈んでいた。ハードカバーでアルファベットがあしらわれているような本を探していたのだ。背表紙をなぞるように指を滑らせていると、一冊の本の上で指が止まる。
 水色のハードカバーの本。背表紙には読めない英字が掘られている。その本を抜き出すと、異様に軽い。きっとこれだ。阿求は何処かに開閉ギミックがないか触って確かめる。側面に溝が……スライド式かも。
 溝に指を掛けて引っ張ってみると、中には一冊の小説が入っていた。タイトルにははっきり『惑星見聞録』と書かれている。それを見て阿求は大きくため息をつき、ほっと胸を撫で下ろす。とにかく無事に取り戻せてよかった。
 となれば早く報告しに行かねば。おそらくこの報告を一番待っているであろう人物の元へ阿求は急いだ。カウンターの向こう、暖簾を潜って裏に出れば一人と一匹、ソファーの上で横になっている。昨日の夜からつい二時間ほど前まで休まず製本作業をしていたのだ、無理もない。

「小鈴」

 呼びかけてはみるが、依然寝息は規則性があるかのように装っている。よほど疲れているのか、それともお腹の上で寝ているヨゾラが暖かくて気持ちいいだけなのか。それを知る彼女に起きる気配はない。

「……終わったわよ」

 小鈴の横に腰掛けて呟くと、彼女の寝顔が少し緩んだ気がした。とても気持ちよさそうに寝ている彼女を起こすのは気が引ける。それなら――と阿求は手に持っていた彼女の愛読書を開いた。カテゴリー的に恋愛小説は嫌いではないが、あまり読んではいなかった。自分には恋愛する時間もないし、何処か他人事のように思っていた。
 なら今度はミステリーの中に恋愛の要素も絡めてみようか。そのためには恋愛小説に触れてみないと。それにいつか私にも誰かに恋い焦がれる時が来るかも――。
 そんないつかを想像して、阿求はくすりと笑う。そんな日が来たら素敵だと思うけど、それはどれだけ先になることだろうか。いつかの明日になることには違いない。
 客足がぱたりと止まった夕暮れ時。暮れゆく幻想郷を静かなものだ。できるならもう少しの間、隣の彼女が起きるまで――どうかお静かに。
 阿求は年下の彼女の頭をそっと撫でると、やっと本を読み始めた。
 恋愛小説『惑星見聞録』。総項数二百四十四ページ。
 読み終わる頃には、彼女も起きるだろうか。


     7


 先日の涼しさが嘘のようによく晴れたまさに夏の陽気。
 新聞の締め切りを明日に控えた射命丸はお昼時に人間の里を訪れていた。居るだけで汗の流れるような暑さに、脇を通り過ぎる誰もが顔をしかめている。だが射命丸は暑さなどもはや思考の外だった。――今日こそは阿求さんに相談しなければ。
 姫海棠に指摘された問題を解決すべく、射命丸は借りていた阿求の小説を片手に鈴奈庵へと足を急がせた。もし解決案が出て編集していたら明日は返す時間が無いだろう。それに運がよければ鈴奈庵の方に阿求が来ている可能性もある。稗田家を訪ねる選択肢もあるが、それはそれで阿求に迷惑が掛かる。この前もアポなしで訪ねてしまったわけだし。
 歩くこと数分、ようやく鈴奈庵にたどり着く。――小鈴ちゃんの件、解決したのかしら。
 恐る恐る暖簾を潜ると、足下を黒猫が通り過ぎて行く。他の猫と見分けは付かなかったが、おそらくヨゾラだろう。その行方を目で追うと、鈴奈庵から少し行ったところで細い路地に入って行った。小鈴が言っていた「友人」のところに帰って行ったのだろうか。

「あっ、文さん。いらっしゃいませ」

 射命丸が店に入ってきたことに気づいた小鈴が声を掛けてきた。射命丸はその声色の明るさから、無事に事件が解決したことを察した。その証拠にカウンターに座る彼女の手には、あの年季の入った愛読書が握られている。

「これお借りしていた本です。愛読書、見つかってよかったですね」
「返ってきてくれて本当によかったです。阿求に感謝しないと。ああ、そうそう」

 紙袋に入った本を取り出しながら小鈴が言う。

「奥に阿求いますよ。私は一応中身を確認しますので、顔出して行ってください」

 やっぱりこっちに来ていた。
 状態確認に入った小鈴の横を通り過ぎ、奥へとつながる暖簾を潜る。奥の部屋に入ると見慣れない服を着た彼女が、聞き慣れた声で話しかけてきた。

「こんにちは射命丸さん。これから時間あります? 約束のお茶、しませんか?」

 いつもの着物姿とは違い、この前の服装とも違う。茶色のジャケットの下には長いボンタイの垂れた白いブラウス。膝上ほど黒のスカートに、ニーハイは出た足を隠す。履き物も少しヒールの高いブーツになっていて、普段見ていた着物姿とは違い元々知的だった彼女をより知的に見せていた。

「こちらからお願いしたいくらいです」

 射命丸は阿求の向かい側の椅子に腰を下ろす。阿求は射命丸にお茶を入れようと席を立った。ふと、射命丸の視線がテーブルの向こう、阿求の座っていた側に置かれた一冊の本に向く。手に取ってみると、表紙に『犯罪の研究』と書かれていた。見た目も非常に綺麗で、新品のように見える。著者は「アガサクリスQ」と書かれていた。

「それ、さっき刷ってもらった新作の見本なの。今確認中」
「もしかして一昨日書かれていた小説ですか? ――ってこれは!」

 ページをめくっていた射命丸の手が止まる。内容に思考が止まった。書かれてあるのはまさにここ数日鈴奈庵で起こった盗難事件に関すること。これを書いたのが阿求となると、一昨日のあの段階で真実に気づいていたことになる。

「まさかあのとき事件についての小説を書いていたなんて……事件解決お疲れ様です」
「私はただ想像したことを小説にしただけ、偶々よ。それに射命丸さんが香霖堂での売買記録を持ってきてくれなかったらこの結果はなかったから……ありがとう」

 湯気の立つティーカップを射命丸の前に置き、阿求は微笑みながらお礼を口にする。職業柄普段言われることのない言葉に、どう返して良いか分からず、口を塞ぐように紅茶を啜った。熱いばかりで味はよく分からない。

「えっと……それで犯人の方は?」
「自首したの。窃盗は成立してなかったから窃盗未遂。処分はまだ決まってないって」

 犯人のことを話す阿求の顔にはわずかに憂愁の色が現れる。
 心優しい彼女のことだ、蓋然犯人のことを思ってのことなのだろう。そんな優しく、聡明な彼女だからこそ、妖怪である私も同じテーブルに着き、紅茶を飲み交わせているんだろう。

「犯人のことが心配ですか?」
「……可笑しいってわかってる。でも、初めから悪人だった人はいないと思うの。時に私的な欲望に流されて道を誤ってしまうかもしれないけど――人の本質は善よ」

 射命丸の目を見てそう言った阿求の瞳は、いつも以上に澄んでいた。
 その瞳には、他の誰も見えないようなモノがきっと今も見えている。幻想郷の人間の誰よりも知識を保有し、九代に渡り幻想郷を見てきた彼女は、「一を聞いて十を知る」もとい「一を見て十を知る」瞳の持ち主だ。

「もちろん、妖怪あなたも」
「――やっぱり阿求さんって変わっていますね。妖怪わたしにそんなこと言う人いませんよ」
「確かに変わっているかも。……いや、変われたのか。だってこれまで九回も転生したけど、妖怪と一緒にお茶したことなんてなかったから」
「不思議なモノですよね。ここ数日で阿求さんに出会って……私が新聞のネタに困って無かったら、こうして出会うこともなかったんでしょうか?」
「どうかしら? 私たちってどっちも鈴奈庵を利用していたんだし、いつかは出会ってたと思う。それこそ小鈴が何か事件を起こしたりすれば」
「それはありそうですね。小鈴ちゃん、見ていて危なっかしいところありますし」
「ちょっと! 聞こえてるんですけど!」

 二人の話声が表の方に漏れていたのか、それを聞いていた小鈴が不満そうな表情で暖簾からひょっこり顔を出す。その顔を見て二人の間で笑いが起こった。つい先日までのこの部屋の空気とは大きく違い、難しい顔をすることなく、ただ笑って過ごせている。

「そういえば新聞の発売はいつ? 早く読んでみたい」
「あっ、そのことなんですけど……」

 射命丸は姫海棠に指摘されたことを、そのまま阿求に伝えた。正体不明のミステリー作家は、作者自体のミステリアスさも魅力の一端である。誰もがその情報を欲するだろう。人間の知的好奇心は隠されれば隠されるほど燃え上がるのだ。
 しかしそこへ彼らが知りたい情報の一部を流したとしても信頼を勝ち取るのは難しい。「この話はアガサクリスQから直接聞いた」と確証が得られなければ疑われて当然である。

「うーん、となるやっぱり写真よね」
「阿求さんを写すわけにはいきませんし、どうやって信じてもらおうか悩んでいまして」
「それならこういうのはどう?」

 何かを閃いた阿求はテーブルの上にあった本と自分が座っていた椅子を手に持って部屋の中を移動し始めた。何かを探すように視線を動かし、意中の場所を見つけたのか、部屋の一角に椅子を置いた。部屋の東側に設置されている窓から入ってくる陽射しが椅子を置いた場所の少し上を照らす。窓からの陽射しと椅子の位置を気にしながら阿求は微調整を続ける。満足する位置を見つけたらしく阿求は椅子から手を放し、今度は椅子に座った。小説を手に持って鎖骨の前まであげる。

「ちょうど服装もいつもと違うし、これだけ強い光なら取った写真にはっきり残る。こんな感じ?」

 最後の微調整をすると、ちょうど椅子に座った阿求の顔に光が差し込んで大きな瞳を隠す。試しにカメラを取り出して覗いてみると、構図は完璧でこれなら顔を誰だか判別できない。色合いも新聞にしてしまえばグレースケールなので読み手には分からない。

「おお、確かにこれなら阿求さんだとは分かりませんね」
「後はこの小説を射命丸さんの新聞より後に出せば、少なくともアガサクリスQに取材したことは確かなものになるはず」

 妖怪が出す新聞にそこまでする義理は何処にもないに。
 阿求への感謝を込めて、射命丸はシャッターを切った。――これはいい画になったな。

「そうだ。撮影ついでにもう一枚、普通の写真も取ってくれない?」
「いいですけど……一昨日は恥ずかしいから取らないでって」
「今も恥ずかしい。けど思ってみれば私の写真ってほとんど無くて。前の私もそうだけど、私だって十年近く前に射命丸さんが出した新聞の写真だけで」
「わかりました。瞬間を切り撮るのが私の仕事なので」

 顔が見えるように椅子をずらし、持って居た本を膝の上に置いた。射命丸がカメラのレンズを向ければ、その向こうで阿求が微笑み返す。俯いている射命丸の顔は阿求に見えないが、レンズに映る彼女に笑い返した。――シャッターを切る。フィルムに今この瞬間が焼き付いた。

「チェック終わりまし……ん? 記念写真でも撮っているんですか?」

 撮り終わってフィルムを巻いていると、本のチェックが終わった小鈴がこちらに入ってきた。「どうせなら二人でも撮ります?」と聞くと、小鈴が「撮ります!」小走りで阿求の隣に詰め寄る。それに合わせて阿求も立ち上がり、小鈴との間を詰めた。
 やっぱり写真は良い物だ。時間に形をくれる。

「――あっ、忘れてました。阿求さんの"Q"の由来」

 小鈴を見て一昨日の出来事を思い出したように射命丸が口にした。
 それと同時に阿求は肩を飛び上がらせる。そんな反応をされると記者としてどうしても由来が知りたくなってしまう。

「小鈴さんはご存じなんですよね?」
「はい、知ってます」
「ちょっと小鈴――」
「答えは教えてあげませんよ? 推理してみてください。ヒントはあのときの阿求の格好です」

 あのときの格好――確か何やら見慣れないファーの付いた赤い外套、肘辺りまである手袋。それにあのとき小鈴ちゃんは「アガサクリスQになるために着ている」と言っていた。なら"Q"の意味は何かの名詞の頭文字――。
 事件を解決するときに回らなかった頭が今になって回り出す。元から射命丸は天狗の中でもかなり頭が切れる方だ。ぴったりのワードが出てくるまでそう時間は掛からない。

「……わかりました」
「じゃあ一斉に言いましょう。せ――の!」

 それはあの格好の彼女に、人間の中で誰より聡明で誰より優しい彼女にふさわしい名詞。

「クィーン!」「クィーン!」

 顔に出やすい阿求の顔が赤く染まっている時点で、答え合わせは不要だった。

「お願い、それだけは記事にしないで。明日から表を歩けなくなる」
「いいじゃんクィーン。格好いい。それに人間の里で見ればアンタはお姫様みたいなもんでしょ。正体バレないんだからこの際言っちゃいなよ」
「……どうします?」
「ぜっ――たい嫌!」

 なら仕方ない。私の胸だけに留めておこう。
 後はこの写真と、手直しした原稿を河童の所へ持って行くだけ。なんとか明日の朝には新聞が発行できそうだ。――新聞記者の肩書きは守られた。人間の里の新聞を本格的に書くことになったからには、これからも里に潜って様々な事実を、時に隠された真実を見つけいかなければいけない。それには彼女のような瞳を持たなければ。
 いつか彼女と同じモノが見える日が来るだろうか。彼女と同じ世界を見てみたい。それが彼女に抱く興味の半分。もう半分は……まだ謎のままだ。
 ――――――
 ――――
 ――
 人間の里、いや幻想郷初のミステリー作家、アガサクリスQ。
 その正体を知るモノは数少ない。だがその正体に触れることができれば、そのモノの人生は大きく変わるかもしれない。彼女――アガサクリスQはそれだけ魅力に溢れている。私は彼女と出会い、話したことで自分の中の何かが大きく変わったような気がした。どれだけ遠回りしても、惑わされようと、その澄んだ瞳は必ず誰も知らない真実を見据えている。これからも彼女の活躍には目が離せない。
 今の幻想郷は大きな異変もなく、概ね平和そのものだ。ネタが少なく困る日々が続く。しかし人間というのは事柄を複雑にすることができる存在だ。今日も人知れず何処かで事件は起こっている。果たしてそれは妖怪の仕業なのか? ――そう問いかけるからこそアガサクリスQの書く小説は面白い。
 物事には様々な側面がある。一つのモノしか見えていなければ、すぐに騙されてしまうだろう。これを読んでいるアナタは何か事件に出くわしたとき、彼女のように様々な側面に気づくことができるだろうか。


 読み終えた新聞を机の上に置くと、射命丸は新聞が入った包みを手に家を出た。
 長い一日が始まる。人も妖怪も、ようやく目を覚ました頃だろう。
 鈴奈庵に新聞を置きに行って、次の新聞作りのネタを探しに走らなければ。それが終わる夕方頃に、彼女へ写真を届けに行こうか。
 地面を軽く蹴り、ふわり宙に舞う。小さく息を吸って、射命丸は風に乗りながらゆっくりと人間の里へ飛んでいく。今日は何が起こるだろう――そう考えると胸が躍る。
 まだ陽も昇りきらない、午前五時のことだった。
 「万能鑑定士Q」に憧れた私が書いたのは、やはり「人の死なないミステリ-」だった。
 読んでいただきありがとうございます。作者です。
 今回の話、中には「分かるかこんなもん。推理で行き着かない」という方もいるんじゃないかと。ですがそれが「Q」のミステリー。
 「Q」のミステリーの最大の特徴は、「知識が無ければ絶対に紐解けない」ところにあると私は思う。
 
 ミステリー初挑戦でしたが、いつか書きたいと思っていたので良い機会に恵まれました。阿求を書くのが楽しかったですね。
 この小説を読んで「万能鑑定士Qってどんな話なんだろう? 読んでみようかな?」と思ってくださった方がいたら嬉しいです。

 ――多分、続きます。 それでは「第三話」で会いましょう。
てんのうみ
コメント



0.39簡易評価
1.9仲村アペンド削除
直球にミステリーを描いていてとても面白かったです。ところどころ文章が荒いのは気になりましたが、それ以上にこの文量をしっかりとストーリーとして読ませる筆力に敬服します。
8.8名前が無い程度の能力削除
阿求の人間らしい、年頃の少女らしい側面が沢山見られて満足です。
私は作者様の言う『分かるかこんなもん』側の人間ではありましたが、私個人、この物語は『ミステリー』の皮を被った何か別な物という印象を受けましたので、謎解きの部分に関して腑に落ちないものを感じても、それで評価を下げる気にはなれませんでした。
これがもしも、謎解きゲーム的な要素の強い、いわゆる『読者への挑戦状』的な作品であればまた、評価も変わったかも知れませんけど。

ところでひとつ気になったことがあるのですが。
『一応』を『一様』と書く誤用はわざとなのでしょうか?
全体的にしっかりとした筆致で書かれた文章の中で、そこだけが妙に浮いていて、何か意図的なもの、作為的なものを感じたりしました。
ただの勘違いであれば、申し訳ありません。
9.9K.M削除
サブタイは仮面ライダーWかな? 
これは人も死にますが、それはそれとしていいですよね人の死なないミステリーも。
コンゲームとかも好き。

「一様質屋や」「確立を高める」「ブックボックを」に少々引っ掛かり。
10.6名前が無い程度の能力削除
面白いです。確かに面白いと思いました。ただ長さの割には、といった気持ちがあります。
ごめんなさい。長ければ長いほど期待値も上がるタチでして、このお話は良いものだったと感じてはいるのですが、見合った満足感を得ることはできませんでした。本文も終始丁寧な描写で語られているのですが、あれもこれもと作品に取り入れて、文面が間延びしているような印象です。
本筋に絡まないいくつかの要素を削げば良いと思ってますが、後書きを見るにこれは続き物、というより本来の長編から単体でも問題のない部分まで切り取ったものなのでしょうか。それでしたら先述した部分を省かないのも頷けます。
ですが、今回はこの作品を単体として読んでますので、そのように評価いたします。続編がありましたら読んでみたいです。